『虐殺器官』(伊藤計劃著)の書評

垂れ流した自分のツイートのまとめ。備忘録的な何か。
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くまふく @kumafukurou

そこへの配慮をもう少し件の登場人物が試行錯誤しているシーンがあったらもっと良かったと思う(上記の例でいえば、新聞記事のイノシシ・シカ・クマの単語を増やせば有害鳥獣被害が増える訳ではない)。

2015-06-08 22:30:19
くまふく @kumafukurou

【ポイント】ここまで書いてふと思いついたのは、これはある種、詩や歌というものの影響力に対する暗喩としてのガジェットではないだろうか、というものだ。規則性や影響力など、実際に人間の思考や決断に影響する文字列という意味では本質的な違いはないからだ。

2015-06-08 22:32:07
くまふく @kumafukurou

この小説は、第一印象として死を観察して書かれたものではないかというのは冒頭に記した。 主人公はスタート地点として未熟な、覚悟のない状態から始まり、ゴールとしては死と殺しの覚悟、そして生の混沌に向っているとも書いた。 この構造が用いられている箇所は他にもある。

2015-06-08 22:33:37
くまふく @kumafukurou

巻末の解説にもあるが、著者はかなり押井守監督作品「劇場版パトレイバー2」に傾倒というか薫陶を受けているのが本文からありありと読み取れる。 兵士としての「有事」とアメリカ市民としての「平時」、これら二つの世界を行き来し、市民生活と戦闘行動が対比された描かれ方はまさに劇パト2だ。

2015-06-08 22:34:24
くまふく @kumafukurou

そして、本作の死生観で描かれる生と死の対比構造自体の相似でもある。 しかし残念なのは、同作の「他人に戦争を肩代わりさせることで得ている偽りの平和」という描写は、現代日本の歪な防衛・外交事情を描いたものであり(この話はここでは言及しない)、

2015-06-08 22:35:45
くまふく @kumafukurou

米軍兵士の市井での生活という平時と派遣される軍人としての有事との差にオマージュとして用いるのはいささか誤用気味であると言わざるを得ない。 ただ、死生観の境界線を読者にまざまざと見せつけるに必要な描写でもあり、物語の構造に必要とあってやっている可能性も否定されない。

2015-06-08 22:36:27
くまふく @kumafukurou

【ポイント】そう、スタートとしての“生への疑問”があるから、ゴールとしての“生(平時)と死(有事)の混合”が成り立ち、メタファーとしての平時と有事が可分であった当初の物語の世界は、ゴール(物語の結末)に至るにおいて決して溶け合わずにマーブル模様のごときカオスを迎えるのである。

2015-06-08 22:37:30
くまふく @kumafukurou

死をよくよく詳しくつぶさに観察し、その筆力で克明にあぶりだしたこの作品はむしろ生への渇望の裏返しであり、読者に“死臭”の薄気味悪さや薄ら寒さを触覚で感じたかのごとり現実味のある質感を与え、むしろその事で自らの本来生物が持つべき生への執着というものをまざまざと感じさせる。

2015-06-08 22:39:28
くまふく @kumafukurou

ここで、一つ、思うことが有る。 作中に登場する“文法”は架空の理論であり実在すると証明されたものではない。 しかし、本作自身がメタ構造的に、 【実は“生”の“文法”に則って書かれた祈りの様な作品で在る】 と信じてみるのも、大変夢があって良いではないかと思う。

2015-06-08 22:41:32
くまふく @kumafukurou

あの結末は何とも言い表せないものを感じた。 ただ、死をここまで書ききった作品を読んで 逆に自分の内にある、生きる意思に気付く感触が得られた気もする。 SFやミリタリーというジャンルに囚われることなく 生き悩む現代日本人に広く読んでもらいたい作品であると、信じている。(了)

2015-06-08 22:47:03
くまふく @kumafukurou

途中のくだりは、自分でも蛇足だと思ってる。うん。 原稿から消そうかどうしようか悩んだ。 ただまぁ、それもあって個人的にすごくリアリティーのある作品に感じられたのです。

2015-06-08 22:54:06
くまふく @kumafukurou

軍事描写的には、フォースリーコンやら夜間のHALO降下の類そのままだと思うので、特に言及すげき事柄が思いつかない。。

2015-06-08 22:57:21
くまふく @kumafukurou

人に認められる作品を作れるようになりたい(割と切実

2015-06-08 23:08:34