"sati"の訳語「気づき」についてのやりとり

仏教語 sati の訳語「気づき」"mindfulness" についてのやりとりをまとめてみました。
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中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

何遍書いてるかわからんけど、大事だから繰り返すが、確かにawarenessもmindfulnessもsatiの英訳語なんだよね。ただ、それを和訳した「気づき」が今までどのように使われてきて、どのような意味を新たに含むようになったか、ということでね。

2015-06-16 13:32:50
佐藤剛裕 @goyou

仏教が「気づき」なんていう変な日本語を使うのは「癒し」とか言っちゃうのと変わらないと思うよ。

2015-06-15 02:01:59
佐藤剛裕 @goyou

南伝仏教系のシャマタ・ヴィパッサナーの瞑想のやり方、チベットのロジョンっていう密教の技法を使わない導入部の瞑想のやり方や密教をやった後にやる瞑想法とどういう風にトーンが違うのか、つぶさに比べてみたいですね。

2015-06-15 02:06:19
佐藤剛裕 @goyou

なにしろ南伝仏教系の伝統では菩提心という言葉を使いませんからね。

2015-06-15 02:07:10
佐藤剛裕 @goyou

@jiei_yushi 止観の行法は天台宗や禅宗で重視されていて日本にも古くから伝わっていますし、様々な考察が行われてきています。わざわざ別の訳語を用いて完全に切り離さなければならないほど日本の禅の念という概念の理解がSatiの原義とかけ離れているようにも思えず……。

2015-06-15 19:53:58
佐藤剛裕 @goyou

@jiei_yushi 日常生活の中での「念には念を入れ」なんていう用法の中では確かに陳腐化してしまっているとは思いますが、そこに原義のもつ深みを加えるほうが、「気づき」なんていう造語を用いるよりもずっと創造的だと思うんですよ。

2015-06-15 20:00:30
難波修羅 @nanbashura

「気づき」がニューエイジ的だというのはそうだと思うんですが、そのニューエイジ・神智学がその誕生時から、アーナンダ・クーマラスワミを介して、アドヴァイタとスリランカ仏教の気づきを取り入れているような気配。その辺は@urushiharaken先生に一度伺ってみたいところ。

2015-06-15 06:45:38
難波修羅 @nanbashura

シュタイナーの『いか超』はマインドフルネスの東洋宗教のドイツにおける(いささか伝言ゲーム的)受容と読まれるべきものだと思います。クリシュナムルティがどこでアドヴァイタに触れたのかなど、シャンカラの最初のヨーロッパ翻訳の影響関係を追いかけるのはとても重要です。

2015-06-15 07:14:28
漆原健@形而上学とエゾテリスム @urushiharaken

@nanbashura 言及大変ありがとうございます。「気づき」(awareness)という用語はニューエイジ界隈で使用されていますが、クーマラスワミ経由の影響ではないと思います。仏教の「念」からの影響自体については不明ですが経緯を検討してみるべきかもしれません。

2015-06-15 07:29:00
難波修羅 @nanbashura

@urushiharaken ご返信、大変有難うございます。sati(念、気づき)は仏教だけでなくアドヴァイタでも重要な概念だと思うのですが、シャンカラの輸入翻訳する過程で使われたりはしていないのでしょうか?

2015-06-15 07:33:40
漆原健@形而上学とエゾテリスム @urushiharaken

@nanbashura パーリ語satiに対応するサンスクリット語スムリティはシャンカラでは全く別の意味で使われています。シャンカラの英訳でawarenessを用いている例があるかどうか、あるとすれば対応するサンスクリット語は何か、はまた調べてみようと思います。

2015-06-15 08:05:45
漆原健@形而上学とエゾテリスム @urushiharaken

@nanbashura なお別問題になりますが仏教の「念」(sati)の訳語として「気づき」(awareness)を用いることは原義にはかなっていると思います。ただ、ニューエイジでこの語が「インスピレーション」のような意味で用いられているので、混同や誤解の懸念はあります

2015-06-15 07:43:43
ニー仏 @neetbuddhist

補足しますが、まず私は常々申し上げているように「テーラワーダの人」ではありません。また、私の主張は最初から一貫して「気づきという訳語の否定に対する異議」であって、それは(明示的に述べたとおり)その他の解釈を私が忌避することを意味しない。togetter.com/li/834686

2015-06-15 18:35:49
ニー仏 @neetbuddhist

satiが「記憶」の意味も持つ、ということ自体は当然のことで、それはsatiが「ダディ」という形で日常語彙に組み込まれているビルマ語などでは、現代語の表現の中にも反映されています。例えば「ダディ・ヤーデー」と言った場合、それは「気がつく」と「思い出す」という意味を同時に持ち得る。

2015-06-15 18:38:06
ニー仏 @neetbuddhist

そして、satiの最も基本的な語義である「記憶」が、瞑想実践の文脈におけるmindfulnessという語義と、実は意味上の繋がりをしっかり持っているというのは、おそらく正しい。ただ、これを文献的に仔細に跡付けて示すのは、ちょっとたいへんです。いつかやらねばとは思っているのですが。

2015-06-15 18:39:43
ニー仏 @neetbuddhist

そうした事情を踏まえた上で、それでも私が「気づき」という訳語を肯定するのは、既述のとおり、それが「念」という漢語に対する従来の一般的な解釈では拾いきれていない satiの語義を、瞑想の実践者たちに対して、端的でわかりやすい現代語で示すからですね。

2015-06-15 18:41:07
ニー仏 @neetbuddhist

「satiや念のままでいいじゃないか」というご意見は、テクストの解釈者としては理解もできますが、多く一般の実践者たちと付き合っている私としては、正直なところ「現実的でない」と感じます。「気づきの瞑想」と簡潔に示すことで一般の実践者に対して「間口を広げる」効果は、やはり大きいかと。

2015-06-15 18:48:18
ニー仏 @neetbuddhist

もちろん、「この簡潔な訳語は、その弊害のほうが大きい」というのが、「気づき」を否定される方々のご趣旨でしょうが、私自身は、日本人に『念処経(サティパッターナ・スッタ)』の瞑想を周知するにあたって、この端的でわかりやすい訳語は、やはり大きな貢献をしたと思っています。

2015-06-15 18:52:04
ニー仏 @neetbuddhist

実際、瞑想の教師が生徒に対して、他の様々な説明の一つとして、この「気づき」という言葉を使って解説を行うことは多いですし、それは伝達の場において、やはり一定の成功を収めていると私は思います。少なくとも、聞く人を「わかった気」にさせるという「害」だけのある言葉として機能してはいない。

2015-06-15 18:54:35
ニー仏 @neetbuddhist

私が「総合的に考えて『気づき』が適訳」と述べたのはそういう意味で、「気づき以外は絶対に駄目」という主張ではありませんから、別に端的でわかりやすい訳語があればそれを採用してもよいのですが、現状は適当なものが見当たらないので、そうした事情を総合的に勘案した上での判断だということです。

2015-06-15 18:57:16
ニー仏 @neetbuddhist

「気づき」が「ニューエイジ系」の色がついているから駄目、といった批判については、それは自身がそういう文脈に親しんでいる方々には強くそのように感じられる、という話なのではないかと私には思えます(そういう文脈に関わりのない人々が違和感なく使う例は多いので)が、そこは見解の相違ですね。

2015-06-15 18:58:51
ニー仏 @neetbuddhist

「気づきは一回性の現象では」という指摘についてですが、瞑想の実践において「少なくとも初心者にとっては多くの場合」、satiは個々の対象に一回的に気づいていくこと(の反復)です。日本語の瞑想指導においてしばしば使われる「サティを入れる」という表現は、このことを端的に表現していますね

2015-06-15 19:02:02
ニー仏 @neetbuddhist

ただ、微妙な話なので括弧つきで述べますが、「段階が進んでくれば」この事情は必ずしも当てはまらなくなり、まさにmindfulness(意識が行き渡っていること)という語感に近い状態にもなってきます。しかし、そこに「一回性の現象」としてのsatiがないかと言えば必ずしもそうではない。

2015-06-15 19:04:00
ニー仏 @neetbuddhist

とはいえ、このあたりはそもそもツイッターで書ききれるような話ではありませんので、より詳細には、拙訳の『自由への旅』(myanmarbuddhism.info/2013/01/10/22/)などをご参照ください。この点は、個々の瞑想指導者によっても、微妙なニュアンスの差異をもって語られるところではあります。

2015-06-15 19:08:54
ニー仏 @neetbuddhist

「sati の最も基本的な語義」は、「記憶」よりも「想起」としておいたほうがよかったかもですね。これは現在のところ単に私見に過ぎませんが、「想起」と「気づき」は近いというか、たぶん「気づくこと」は、「想起すること」そのものでもある。

2015-06-15 20:10:37
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