これまで見てこたことと同じ結論にたどり着くことになるが、少々見方を変えた解釈を書いてみよう。それはサド的至上者と同じ至上権を追求した足立透という側面である。
2015-08-15 19:12:16足立の声優である真殿光昭は、「黒足立はドS(極端なサディスト)です」と述べているが、このドSという俗語の由来であるサドその人の基本的な思考と足立のそれとはぴったり一致していると言わなければならない。
2015-08-15 19:13:12足立がトリックスター元型の憑依状態となり、欲望に駆られて大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦の世界を目指したことは、「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」という、サドの原理と同じところに集約される。
2015-08-15 19:13:47モーリス・ブランショの『ロートレアモンとサド』によれば、サドの基本的な思考は「絶対的な孤独」という根本的な事実に基づいている。サドは、「自然は私たち人間を孤独者として誕生せしめた」とする。そのような絶対的に孤独な者は、人間相互の間にいかなる種類の関係もないとみなす。
2015-08-15 19:14:24この孤独者の唯一の行動原理は、彼にとって快く感じられるもの全てを選び、たとえ彼の選択が他人に対して悪い結果を及ぼすことになろうとも、「そんなことは知ったことではない!一切気にするものか!」というものになる。
2015-08-15 19:15:23他人にとっての最大の苦痛も、彼の快楽に比べれば物の数ではなく、ほんの僅かな楽しみを手に入れるために、前代未聞の大犯罪をごっそり犯さなければならないとしても、サド的至上者には大したことではないのである。
2015-08-15 19:16:49欲望に対する柵である「禁止」が効果を持たない足立においては、その楽しみは彼にとって気持ちのよいものであり、彼の内にあるものだけれども、犯罪の結果は彼にとっては関係がないもので、彼にとっては彼の外にあるものだと思われていた。
2015-08-15 19:17:35現実の人間はだいたい他人との間に絆を結んだり結ばれたりしているから、そういう人間関係の網の目に絡め取られないで完全に孤立している人間などというものは通常は考えられない(これは実際には足立もそうである)。
2015-08-15 19:19:04人間同士の相互依存がなければ、いかなる人間の生もありえない。しかし、この相互依存の関係の網の目に絡め取られている状態では、人間は他者に隷属した時間しか持てず、他者のために力を割譲することによって己の力を分散させるのみで、
2015-08-15 19:19:33というのは、相互依存がなければありえない人間の生においては、他者を尊重し、他者を頼りにすることが必要であり、したがって他人のために力を尽くすのは当然であると信じるようになるからである。他者の価値を認めるものはこのように必然的に自分を制約し、衰弱していく一方になる。
2015-08-15 19:19:51サドや足立の「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」は、こうした自らを衰弱させる現実の構造を否定する違犯の運動の極致である。それは違犯の頂点に達するまでは止まろうとしない欲望の運動である。
2015-08-15 19:21:31私は先に、集合的シャドウないしトリックスターの元型が「禁止」を無効化するほどの「無制限な違犯」を引き起こす可能性を持っており、トリックスター元型の憑依状態となった足立においては「禁止」が意味を失って抑制されていた欲望が堰を切って溢れだしたと述べておいた。
2015-08-15 19:22:08その欲望の対象である大衆的な神秘的融即ないしウロボロス近親相姦の世界は、まさにサド的至上者のごとき「他者の無限の否定によって肯定される自分自身の至上権の追求」が目指す究極、すなわち抑制するもののない自由が開く「無」である。
2015-08-15 19:22:28バタイユ及びブランショによると、このサド的至上者における至上権の追求は、究極においては当初の「他者の無限の否定による自分自身の肯定」という原理を踏み越えて自己否定になるという。
2015-08-15 19:22:52というのは、その無限という特徴が、可能性の極限にまで、個人的快楽の彼方にまで推し進められていくと、いかなる隷属及び衰弱からも解放された至上権を追求するようになるからだというのである。
2015-08-15 19:23:11サド的至上者の至上権の追求は、より強烈な、究極は最も強烈な快楽に到達することのみに的が絞られている。その追求においては、より低次な快楽への隷属は拒まれる。それは至上権の追求とは逆である「没落」を意味するからだ。要するに「更なる快楽を!」ということである。
2015-08-15 19:23:47さて、サドが描き出した「さらなる快楽を追求すること」に的が絞られているサド的至上者の至上権の追求は、個人的なエゴイズムを超えて、いわば非個人的なエゴイズムとでもいうべきものを発動させるものにまでなった。
2015-08-15 19:25:23P4Gにおいてこれに対応するのは、足立を含めた大衆が「大衆の再集合化」という伝染病に感染し、大衆人間・大衆自己の憑依状態となって自我意識の退行的解体を引き起こしかけたという恐るべき現象である。
2015-08-15 19:26:08