素振りの剣聖ベル=クフォルの弟子【短編】

素振りしか知らないのに剣聖になった男に、弟子ができた時の話です。 @decay_world はツイッター小説アカウントです。 実況・感想タグは #減衰世界 が利用できます
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――素振りの剣聖ベル=クフォルの弟子

2015-07-08 17:03:28
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少年が一人、山道を歩いていた。20メートルはある巨木が森の空を覆い隠している。いわゆる田舎だろう。奇妙な鳴き声の鳥。3対の翅を揺らしてゆったりと飛ぶカゲロウ。山道は舗装されておらず、あちこちに泥の水たまりがある。少年は近くの村の子供で、勇敢で、武芸を志すのを夢見ていた。 1

2015-07-08 17:08:59
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武芸を志すのは良いが、やはり田舎である。道場も無ければ騎士団も無い。そもそも武器の流通すらない平和な村だった。それは村を支配する領主が国境警備に潤沢な予算を投じているおかげであったが、少年にはその平穏が不満だった。少年は夢見ていた。力でのし上がる荒野の世界を。 2

2015-07-08 17:12:20
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そして少年が15歳になったとき、初めてその思いを両親に打ち明けた。少年は武芸を習うために遠くの国境の街へと旅立ちたいと決心していたのだ。両親は戸惑ったが、10人いる兄弟姉妹のうち一人が青雲の志を抱くことも覚悟していたのだろう。ただし、両親の提案はいくらか現実的だった。 3

2015-07-08 17:15:57
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「息子よ。お前は知らないかもしれないが、この村にも剣聖と称えられる立派な剣士がいるのだ。彼に教えを受けてから……それから旅立つのも決して遅くは無いだろう」 「知らん! そんなの……俺さえ知らないんだから、ろくな剣士じゃないんだろう」 少年は不満顔だ。 4

2015-07-08 17:19:04
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「ぼうや、会ってもいないひとを勝手に悪く言うのはよしなさい。実際会ってみなさいよ。そうしたら、考えも変わるかもしれないわ」 母親が諭す。少年は本気で武芸を志すつもりであった。だからこそ、全てを学び、全てを習得するつもりだった。そのためにはどんな困難も受け入れるつもりだ。 5

2015-07-08 17:21:53
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学ぶ価値も無いと思ったら決別すればよい。少年は、そう思ってとりあえず教えを請うことにした。剣聖の名はベル=クフォル。山奥に住んで修行に明け暮れているという。そういうわけで、こんな山の中までやってきたのだ。背中には荷物を詰めた袋と、使いこまれた木刀を背負っている。 6

2015-07-08 17:24:22
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目的の剣聖の家はすぐに見つかった。まるで原始人が住んでいるような茅葺の掘立小屋だ。その家の前で、素振りをする男がいた。伸び放題の髪を後ろで縛り、汚れのしみついたボロの道着を着ている。リズミカルにステップを踏み、美しい動作で木刀を何度も振り下ろしている。 7

2015-07-08 17:26:25
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まるで精密機械が動作している姿に見入ってしまうように、少年は男の素振りに見とれてしまった。あの男が例の剣聖であろう。少年は声をかけるのも忘れて素振りを見ていた。男が少年に気付き、ステップを継続しながら振り返る。「やぁ、ようこそ我が道場へ! 話は聞いてるよ」 8

2015-07-08 17:28:39
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少年はこの剣士なら教えを受けてもいいと思った。期待に目を輝かせて、剣士の話を聞く。だが、それはすぐに失望へと変わる。「えっ……素振りしか知らないって、どういうことです?」 「どうもこうも、俺は素振りの技術しか知らないんだ。それ以外は知らないから教えられん」 9

2015-07-08 17:31:13
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剣士は申し訳なさそうに話を続ける。「俺の師匠は立派なひとでさ、何も知らない俺にみっちりと素振りの技術を教えてくれたんだ。だが、不運なことに、素振りを教えたところで師匠は病気で死んじまった。だから俺は素振りしか知らない。今の今まで、素振りしかやったことは無い」 10

2015-07-08 17:34:52
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「そんなの、何も知らないといっしょじゃないか! 素振りなんて、みんなすぐ卒業しちまう基礎中の基礎だよ。はぁ……」 少年は明らかに失望した顔をした。剣士はそれでも怒らず、木刀を手に素振りを開始する。やはり美しい弧を描いて木刀が振られ、ステップのリズムは完璧だ。 11

2015-07-08 17:37:01
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素振りをしながら剣士は話を続けた。「俺は素振りの他は何も教えてもらっていやしない。君に教えるすべさえ知らないんだ。だから、俺はどんな説明よりも、こうして素振りで示すしかないんだ。それが俺の全てなんだ。だから俺の素振りを見て何も感じなかったら、俺はそれ以上どうしようもない」 12

2015-07-08 17:41:08
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悔しいことに、少年は剣士から素振り以上のものを感じ取っていた。剣士の素振りを教わりたいと思った。つまらない剣士だとは思った。しかしそれで片づけるとなんだか負けた気分になるので、少年は帰ることを選ばなかった。「見てろよ」 少年は剣士の隣に並んで、素振りを始めた。 13

2015-07-08 17:44:13
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しかし、比べてみても一目瞭然である。剣士の美しい素振りと比べると、少年は恥ずかしささえ覚えた。自分の今までやっていた自己流の素振りのなんと不格好なことか。だんだん嫌気がさしてきて、少年は素振りをやめてしまった。剣士は素振りを続ける。本当に素振りしか知らないのだ。 14

2015-07-08 17:47:00
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素振りを諦めた少年にかける言葉も、叱責も激励も知らない。ただ剣士は素振りだけを知っていた。「バーカ! もうこねぇよ!」 少年は恥ずかしさのあまり捨て台詞を吐いてその場から逃げるように家へ帰った。悔しかった。ただの素振りに負ける自分が悔しかったのだ。 15

2015-07-08 17:49:19
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少年は家へ帰るなり、布団にくるまって涙を浮かべてしまった。口では武芸を志すなどと言っておいて、素振りすら馬鹿にしていた自分に嫌気がさしてしまったのだ。だが、ここで諦めるのもさらに腹立たしいことだった。自分はあの剣士に勝ち逃げされているのだ。絶対に見返してやりたい。 16

2015-07-08 17:54:07
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少年の意気込みとは裏腹に、次の日は雨だった。あの道場は屋根すらない。掘立小屋も寝るスペースしかない。今日の修行は休みだ。少年はだんだん居心地が悪くなってくる。あんな暴言を吐いた後休んでしまっては、明日合わせる顔がないではないか。だが月謝は払っている。 17

2015-07-08 17:55:30
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そのとき父親が山から帰ってきた。雨が強かったので、山にある畑の様子を見に行っていたのだ。「おや、今日は休みか。先生は雨の中素振りしていたぞ」 その言葉を聞いて、少年は衝撃を受けた。あの掘立小屋の近くには屋根のようなものは無い。雨に打たれながら素振りしているのだ! 18

2015-07-08 17:58:04
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(負けた……また負けてしまった!) 少年は急いで山道を登る。傘さえささず、泥の水たまりを踏むのも躊躇しない。あの剣士は、常に自分の上を行っている。素振りしか知らない癖に、あらゆる面で自分を凌駕しているのだ。それがたまらなく悔しくて、少年の心は燃え上がるほどに揺れていた。 19

2015-07-08 18:00:44
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掘立小屋と剣士が見える。剣士は、やはり雨の中素振りをしていた。「雨の中何やってるんだよ」 「最初は風邪をひいたもんさ。でも、何度も、何年も続けているうちに風邪をひかなくなった」 (本当の剣聖だ……) 少年は自分も張りあって、隣で素振りをしようとする。 20

2015-07-08 18:04:16
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すると剣士は穏やかな口調でそれを制止するのだ。「やめておいた方がいいよ、慣れてないから、すぐ風邪をひいてしまう。無理は良くないよ。また明日から始めよう」 21

2015-07-08 18:08:21
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それを聞いた少年は、敗北感と嫉妬で口をきゅっと結び、また暴言を吐いて山道を駆け下りたのだった。22

2015-07-08 18:12:48
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――素振りの剣聖ベル=クフォルの弟子 (了)

2015-07-08 18:13:00