集英社インターナショナル @Shueisha_int さんの言語に関するつぶやき

@Shueisha_int さんの言語に関するつぶやきが面白かったので、自分用にまとめておきました。
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集英社インターナショナル @Shueisha_int

日本全国は東京などのごく一部をのぞいて雪だったようですね。帰省などでたいへんな思いをした人も多かったのではないでしょうか。

2011-01-03 16:42:41
集英社インターナショナル @Shueisha_int

さて、雪ということで思い出すのが最近、知ったこんなエピソード。

2011-01-03 16:43:07
集英社インターナショナル @Shueisha_int

だいぶ前に川端康成の『雪国』冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という一文を聞いて、どんな情景を思い浮かべるかを尋ねる実験を、日本人と英語を母語とする人に行なったところ、両者ではまったく違う結果が出たそうです。

2011-01-03 16:45:51
集英社インターナショナル @Shueisha_int

「雪国」の冒頭を聞いて、日本人は列車に乗っている主人公と同様に、闇が一気に晴れて、真っ白い雪景色の中に飛び込んでいく情景を思い出した。これに対して、英語の話者の多くは、ちょうど山の上から空撮しているかのように、列車が山の中から雪原に出てくる風景を想像したのです。

2011-01-03 16:50:17
集英社インターナショナル @Shueisha_int

このことについて、ある日本語研究者は「日本人の言葉の組み立て方は、いわば『虫の視点』のようなものであり、英語話者のそれは『神の視点』に立っているのだ」と指摘しています(金谷武弘 http://ow.ly/3xg8E』)

2011-01-03 16:53:29
集英社インターナショナル @Shueisha_int

この「虫の視点」と「神の視点」という比較を聞いて私は膝を打ちました。なるほど、だから西洋文学(英語から一気に西洋全般に飛躍するのは問題ですが)は町を俯瞰するかのように人間社会を描き、一方の日本文学は地を這うような「私小説」に傾くのかと。

2011-01-03 16:55:44
集英社インターナショナル @Shueisha_int

よく言われることですが、バルザックやエミール・ゾラのようなフランス近代小説の大作家たちは人間ではなくて、「パリ」という町、都市という怪物を描いたのだとされます。彼ら文豪たちは神になりかわって人間界の醜さ、すばらしさを描こうとした。

2011-01-03 16:58:33
集英社インターナショナル @Shueisha_int

一方の日本は、俳句がまさに象徴的ですが、あくまでも主観の世界です。芭蕉は、古池に蛙が飛び込む様子を描いたのではなく、その情景によって引き起こされる内面の波立ちを描こうとした。そこには一人の人間があるだけで、神になろうという野心はないと思います。

2011-01-03 17:00:40
集英社インターナショナル @Shueisha_int

西洋近代にも、もちろん主観によって物語を構築しようとした人はいます。たとえば、女流作家のヴァージニア・ウルフは「意識の流れ」を描こうとしたし、ジョイスもそうですが、しかし、彼らがそのようなことをすると「前衛的」「実験的」になる。

2011-01-03 17:04:40
集英社インターナショナル @Shueisha_int

かたや日本では、主観をだらだらと書くと「古くさい」「私小説的だ」というわけで、ちっとも斬新だとは思われなかったりする(最近は私小説も衰退したからちょっと違うかな)。

2011-01-03 17:05:47
集英社インターナショナル @Shueisha_int

でも先ほどの金谷さんの研究によれば、日本語のそうした傾向というのはけっして特異なものではなくて、むしろ欧州の近代語のほうが特異なのではないかと言います。たとえば日本語には主語がないと批判されますが、実は古代ラテン語やギリシャ語も主語を必要としない。

2011-01-03 17:08:47
集英社インターナショナル @Shueisha_int

そう考えてみると、正岡子規が短歌や俳句の世界に「写実」を入れようとしたのは、まさに「神の視点」を採り入れようとしたわけで、「ああ、なるほど子規は偉いなぁ。欧米文学の何たるかをつかんでいたんだなぁ」と思うんですね。

2011-01-03 17:14:08
集英社インターナショナル @Shueisha_int

でも、それはもちろん正岡子規の時代、明治という時代においては重要な視点ではありましたが、今もそれが通用するのか、それでいいのか、ということは別の話ですけれどね。

2011-01-03 17:15:40
集英社インターナショナル @Shueisha_int

神の視点で世界を統治することを考えるアングロサクソンの発想と、虫の気持ちになって「土着」の心を失わず、自然との共生を考える日本人の発想──もちろん、どっちがダメで、どっちがいいというわけではないでしょうが。

2011-01-03 17:17:48
集英社インターナショナル @Shueisha_int

あ、ちなみにさっきの実験に用いられた英文の「雪国」はサイデンステッカー訳のそれだそうです。 The train came out of the long tunnel into the snow country. 

2011-01-03 17:22:22
集英社インターナショナル @Shueisha_int

英語と日本語とでは文章がまったく違う!という人もあるでしょうが、日本語の場合は主語がなくとも「経験」そのものを描くことができるけれど、英語にはそれができない。主語 the trainを設定して「現象」として描かないと文章にならない。すでにそこが違う。

2011-01-03 17:25:29
集英社インターナショナル @Shueisha_int

言い換えるならば、日本人の場合の世界は「関係性」によって成りたっている。自分が置かれた「状況」に対応する形で「ワタシ」がある。一方のヨーロッパ近代語では、状況依存ではない「ワタシ」という存在がキリリと立っている、とでも言えましょうね。

2011-01-03 17:27:59
集英社インターナショナル @Shueisha_int

まあ、楽なのは状況依存ですよ。社会的文脈、歴史的文脈を乱さないように調和的に生きて行くのがいいわけですから、そんなに「決断」しなくてもいい。「ワタシが」といちいち自己決定していくのでは疲れるでしょうね。

2011-01-03 17:30:49
集英社インターナショナル @Shueisha_int

この雪国冒頭、では「誰が列車に乗っているか」は明らかになっていないので、サイデンステッカーが列車を主語にしたのは適切だと思います。むしろ主語に「ワタシ」とか「彼女」とか「彼」とかを入れて訳すのは、訳しすぎですね。

2011-01-03 17:37:29
集英社インターナショナル @Shueisha_int

@ryochan999 たしかに有名な例としては日記文などは主語の「ワタシ」がない。でも、それはあくまでも欠落した形であったり、特例であったりする。いわゆる規範文法では述語に対応する形で主語が要請される。

2011-01-03 17:39:37
集英社インターナショナル @Shueisha_int

つまり、雪国の冒頭の一文が示すのは、誰が列車に乗っているかを描かなくても日本語では叙述が可能であるということでもあるわけです。

2011-01-03 17:41:32
集英社インターナショナル @Shueisha_int

チョムスキーの普遍文法、あるいは変形生成文法は一時期、日本語研究でももてはやされましたが、今では批判が大きいですね。そもそも変形生成文法は「後出しジャンケン」みたいなもので、どうにでも説明がつけられる。それだけ融通無碍で、普遍なのでしょうが^^;

2011-01-03 17:45:38
集英社インターナショナル @Shueisha_int

チョムスキーの文法説に決定的に欠けているのは「文脈」ということではないかと思うのですね。つまり、話者の置かれている状況、それまでの経緯、人間関係・・そうしたものは変形生成文法の守備範囲ではないように思います。

2011-01-03 17:47:15
集英社インターナショナル @Shueisha_int

かたや日本語の場合は、いってみれば文脈オンリー。有名な例でいえば「僕はウナギだ」。これを普通の会話で言うと、「あなたは人間ですよ。お医者に行って診てもらいなさい」と冷ややかに言われますが、ウナギ屋さんでは「あいよ!」と返事が来ます。

2011-01-03 17:49:18
集英社インターナショナル @Shueisha_int

チョムスキーはたしかに今でも古典でしょうけれど、あのころは流行でした。チョムスキーですべてが解決できる──そんな時代もありました、ってことですね^^;

2011-01-03 18:08:31