【宥学会・遊学塾】「中井正一を何度も読み直す」講師:土屋誠一[実況]

日 程:2015年9月11日(金) 時 間:19:00~ 場 所:美学校 本校 [講座は2015年5月より毎月第二金曜日開催]
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みそむーおでん @misoni_2013

1つは陶芸、二つは・・・などセクションに分ける。 で、コンティニュイティとはそれぞれのショットとはどれだけの時間を持っているかストップウォッチで計測する。 それが数字の羅列として書かれる

2015-09-11 19:22:50
みそむーおでん @misoni_2013

第6部は1つのショットの平均が1,79秒と、 映画の言語はそう作られていると文書で述べる。 映画をショットの単位に分割しそれにより映画分析しよう、と。

2015-09-11 19:23:51
みそむーおでん @misoni_2013

映画分析で、モンタージュが無い映画は無いが、1931年では、すでにモンタージュ理論(エイゼンシュタイン)が知られているし、映画の眼という人の目と異なる眼で映画の表象が作られる、と。 映画のソ連の最新理論が日本でも共有され、それを実践した、と

2015-09-11 19:25:03
みそむーおでん @misoni_2013

1931年、中井は映画も造る。 実験的で、純粋映画だが見ていないので内容は良くわからない

2015-09-11 19:25:44
みそむーおでん @misoni_2013

エイゼンシュタインのモンタージュ理論が内面化されている。 その細かい文節が行われてるが、中井の映画理論で重要なのは、映画にはコプラがない、というフレーズ

2015-09-11 19:26:23
みそむーおでん @misoni_2013

中井が語る映画言説で必ず持ちだされる、コプラが無い、とは何か。 コプラとはけいじのこと。 モンタージュで組み立てられた物語やシークエンスを我々は勝手に読み取るが、だからこそコプラが無い、それが映画の物語構造

2015-09-11 19:27:43
みそむーおでん @misoni_2013

小説は、作者が主体的に組み立て読者に事後的に鑑賞させる、という話。 ここでは「個人作者」、近代的主体をもった制作作者、というのがここから読み取れる

2015-09-11 19:29:21
みそむーおでん @misoni_2013

監督は絶対的な操作する主体として作品が供され人々は映画をみる、とは考えてない。あるカットを結びつけるモンタージュで、それだけでは何も起きないが、観客が主体的に何かしらの意味を読み取る、それがコプラが無い、という点だ

2015-09-11 19:31:27
みそむーおでん @misoni_2013

しかしこれはエイゼンシュタインのモンタージュ理論を見れば述べてることがおかしい。 あるショットとあるショットが連関してないが、モンタージュ=編集により、そこにカットの連続性が事後的に立ち現れる、だから製作者はモンタージュを駆使し映画を造る。制作主体は操作的にしている

2015-09-11 19:32:30
みそむーおでん @misoni_2013

しかし中井はそうは思わず、製作者は映画を投げ出し鑑賞者が主体的に意味を読み取ると言い切る。 それはメディアを通じて形成される共同体観念が反映されている。

2015-09-11 19:33:14
みそむーおでん @misoni_2013

字幕は、あるいはトーキーのセリフは補助的。 観客がである、でない、とコンテンツを再想像すること、それが重要だと言う

2015-09-11 19:34:14
みそむーおでん @misoni_2013

中井の「委員会の論理」に繋がるが、 映画は近代的資本主義システム消費物として考えられるが、それにより生活が営まれるが、マルクス主義としては堕落で阻害状況だ。 しかし中井は大衆阻害的な余暇を対価を払い潰す単なる消費財では映画はない、と考える

2015-09-11 19:36:24
みそむーおでん @misoni_2013

映画メディアを通じて大衆を作り上げる、その大衆とは単なる無知な大衆でなく近代的主体概念を超えた共同性を超える人々の群れのことで、それが創りだされる。

2015-09-11 19:37:13
みそむーおでん @misoni_2013

社会反映論的な言い方だが、大衆欲望の鏡としてある原初的欲望は、芸術の原初形態が映画という近代メディアを通じて現れる、と

2015-09-11 19:38:39
みそむーおでん @misoni_2013

作者もまた、という言い方が興味深い。 映画は社会反映論として考えられているが、世俗的に人間欲望が反映されるのでなく、時代が求める人間精神が願望として映画メディアに投影され、一映画監督や技術者という専門知に回収され大衆に与えられるのでなく、彼らも大衆であり、その共同で作られる、と

2015-09-11 19:40:18
みそむーおでん @misoni_2013

映画は集団制作的に作られる、と。 ここで言われる欲望とは現状に対する変化・社会に対する変革が述べられる。

2015-09-11 19:40:57
みそむーおでん @misoni_2013

とはいえ文学から独立しておらず映画独自の理論が全開し発揮されているわけではない、と

2015-09-11 19:41:36
みそむーおでん @misoni_2013

筆者注)カットの文法を読みました

2015-09-11 19:41:51
みそむーおでん @misoni_2013

今の話が中井の先駆的な内容であるが、 中井の映画論で語られるコプラがないということ、それが今まで無い映画の革新性だと、それを述べた中井が先駆だと、 しかしコプラについて述べたのは戦後。戦前には見当たらない

2015-09-11 19:43:20
みそむーおでん @misoni_2013

中井について誰でも知ってるフレーズは戦後に作られたもの。 1931年の映画に関するエッセイではそれはない。 後の中井論者、木下によるものが体系的で最初のもの。 1990年代後半に高島直之によるもの

2015-09-11 19:45:08
みそむーおでん @misoni_2013

高島による中井論は、20世紀アヴァンギャルドのバウハウスや当時で言う前衛を比較するもの

2015-09-11 19:45:54
みそむーおでん @misoni_2013

1980年代後半から2000年代にかけた2人が中井の重要な論者。 そこでコプラ問題は語られるが、よくわからないし、いつその概念を思いついたか分からない

2015-09-11 19:47:05
みそむーおでん @misoni_2013

しかし調べると1950年代に、国立国会図書館に務めるが、その激務の間に書いた短い一文で初出される。

2015-09-11 19:47:23
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