- misonikomioden
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1つは陶芸、二つは・・・などセクションに分ける。 で、コンティニュイティとはそれぞれのショットとはどれだけの時間を持っているかストップウォッチで計測する。 それが数字の羅列として書かれる
2015-09-11 19:22:50第6部は1つのショットの平均が1,79秒と、 映画の言語はそう作られていると文書で述べる。 映画をショットの単位に分割しそれにより映画分析しよう、と。
2015-09-11 19:23:51映画分析で、モンタージュが無い映画は無いが、1931年では、すでにモンタージュ理論(エイゼンシュタイン)が知られているし、映画の眼という人の目と異なる眼で映画の表象が作られる、と。 映画のソ連の最新理論が日本でも共有され、それを実践した、と
2015-09-11 19:25:03エイゼンシュタインのモンタージュ理論が内面化されている。 その細かい文節が行われてるが、中井の映画理論で重要なのは、映画にはコプラがない、というフレーズ
2015-09-11 19:26:23中井が語る映画言説で必ず持ちだされる、コプラが無い、とは何か。 コプラとはけいじのこと。 モンタージュで組み立てられた物語やシークエンスを我々は勝手に読み取るが、だからこそコプラが無い、それが映画の物語構造
2015-09-11 19:27:43小説は、作者が主体的に組み立て読者に事後的に鑑賞させる、という話。 ここでは「個人作者」、近代的主体をもった制作作者、というのがここから読み取れる
2015-09-11 19:29:21監督は絶対的な操作する主体として作品が供され人々は映画をみる、とは考えてない。あるカットを結びつけるモンタージュで、それだけでは何も起きないが、観客が主体的に何かしらの意味を読み取る、それがコプラが無い、という点だ
2015-09-11 19:31:27しかしこれはエイゼンシュタインのモンタージュ理論を見れば述べてることがおかしい。 あるショットとあるショットが連関してないが、モンタージュ=編集により、そこにカットの連続性が事後的に立ち現れる、だから製作者はモンタージュを駆使し映画を造る。制作主体は操作的にしている
2015-09-11 19:32:30しかし中井はそうは思わず、製作者は映画を投げ出し鑑賞者が主体的に意味を読み取ると言い切る。 それはメディアを通じて形成される共同体観念が反映されている。
2015-09-11 19:33:14中井の「委員会の論理」に繋がるが、 映画は近代的資本主義システム消費物として考えられるが、それにより生活が営まれるが、マルクス主義としては堕落で阻害状況だ。 しかし中井は大衆阻害的な余暇を対価を払い潰す単なる消費財では映画はない、と考える
2015-09-11 19:36:24映画メディアを通じて大衆を作り上げる、その大衆とは単なる無知な大衆でなく近代的主体概念を超えた共同性を超える人々の群れのことで、それが創りだされる。
2015-09-11 19:37:13社会反映論的な言い方だが、大衆欲望の鏡としてある原初的欲望は、芸術の原初形態が映画という近代メディアを通じて現れる、と
2015-09-11 19:38:39作者もまた、という言い方が興味深い。 映画は社会反映論として考えられているが、世俗的に人間欲望が反映されるのでなく、時代が求める人間精神が願望として映画メディアに投影され、一映画監督や技術者という専門知に回収され大衆に与えられるのでなく、彼らも大衆であり、その共同で作られる、と
2015-09-11 19:40:18今の話が中井の先駆的な内容であるが、 中井の映画論で語られるコプラがないということ、それが今まで無い映画の革新性だと、それを述べた中井が先駆だと、 しかしコプラについて述べたのは戦後。戦前には見当たらない
2015-09-11 19:43:20中井について誰でも知ってるフレーズは戦後に作られたもの。 1931年の映画に関するエッセイではそれはない。 後の中井論者、木下によるものが体系的で最初のもの。 1990年代後半に高島直之によるもの
2015-09-11 19:45:081980年代後半から2000年代にかけた2人が中井の重要な論者。 そこでコプラ問題は語られるが、よくわからないし、いつその概念を思いついたか分からない
2015-09-11 19:47:05