表現と曼荼羅

小池博史(@koikehiroshi) さんと風の旅人 佐伯剛(@kazesaeki)さんの芸術と曼荼羅を巡るつぶやきをまとめました。
0
小池博史 @koikehiroshi

パパ・タラフマラは面白いくらい賛否が分かれるようだ。「白雪姫」ツアーで3,000人近くの子供がやってきているが、子供は一様に賛である。大人は明確に賛否がわかれる。演劇慣れ、舞踊慣れしている人も賛否に分かれるが、否の方が多いかもしれない。

2011-01-03 11:55:45
小池博史 @koikehiroshi

僕は自分が見たことのないものを作ろうとやってきた。メソッドを確立すると平気で言う人を見ると恥ずかしく感じた。・・・メソッドとは、実はそれで打ち止め、ということである。メソッドは常に壊す材料としてある。自分の方法はあってもいい。稽古の仕方としてのメソッドはあってしかるべき。

2011-01-03 11:57:31
小池博史 @koikehiroshi

けれど、作品にメソッドを持ち込むのは4~5回切りだと思ってきた。以降はそれは単なる模倣へと脱する。自分の模倣をしてなにが面白いのか。だが、そんな方法を採っていると客離れを起こす。観客とは気に入れば見るが、すぐに気に入らなければ離れていく。

2011-01-03 12:00:10
小池博史 @koikehiroshi

メソッドは型である。型の確立に楽しさを見いだす人がいるのは分かる。しかし、これがオレの型だ、その型を磨き込み続けるのだというのは、これはアーティストの発想ではない。職人の発想である。

2011-01-03 12:03:43
小池博史 @koikehiroshi

職人であって悪いことは何もない。職人を卑下しているのではない。職人は職人で敬愛している。だが、アーティストたるもの、先に進まねば、一歩でもはいつくばってでも進まねば、と思うのである。しかし、メソッドの方が金になる。名誉も付いてくる。笑っちまうね。

2011-01-03 12:05:52
小池博史 @koikehiroshi

笑っちまうが、型の重要性もよくわかる。型は根っこになる。その根っこがあるなしでは、全然違うが、多くは根っこにだけしがみついて離れない。離れようとする意思を持つ中で、アートとしての機能が動き出すように思う。

2011-01-03 15:07:18
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

京都に降り立った瞬間、高野山のギャップにおどろく。東京だと、どうなる。明日から仕事なのに。取り合えず東寺に行くが、どうもピンとこないのでバスで1時間ほどかけて、空海修行の地、神護寺に行く。このあたりは深い森で、うっすらと雪が残り、しかも観光客はおらず、なかなかよかった。

2011-01-03 22:11:27
小池博史 @koikehiroshi

音楽メルマガを配信している。音楽は15~27歳の期間を除いて(このときはジャズ一辺倒)何でもありだった。でもジャンルはどうでもいいというだけ。好き嫌い、良い悪いはハッキリしていた。しかし好き嫌いは時間と共に変化する。良い悪いは変わらない。だが好き嫌いを批評基準にする人が多すぎる。

2011-01-04 00:50:32
小池博史 @koikehiroshi

面白いほど音楽の嗜好性は変わるものだ。もちろん僕にとってまったく変わらない音楽家もいる。自分をとことん追求しようとした魂を持つ音楽家は、かなり早くから輝き、廃れることがない。けれど、時代と共に一所懸命になっている音楽家はどうもその始めから頂けない。

2011-01-04 00:54:44
小池博史 @koikehiroshi

結局、アートでも音楽でも、どう生きるか、その証が作品になっていくのだろう。つまりは、自分自身を振り返れ、ということなんだなあ、と自分をしばしば戒めている。

2011-01-04 00:57:01
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

睡眠時間は少ないが、すっきりと目覚める。昨夜、テレビのスイッチを付けると、空海と最澄のことをやっていたので気になって見たが、内容が、想像を絶するほど酷い。ここまで歪曲されたものを当たり前のように伝え、伝えられているのが、この国の哀しすぎるほどの現状。

2011-01-04 07:01:13
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

この国の人びとの視点を歪めているものは映像。テレビが最大だが、写真も、その多くはテレビてき視点の影響下にある。だから、映像の問題は、映像で制するしかないと私は思っている。

2011-01-04 07:06:49
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

写真は、物質を映す。その物質がエネルギーに転換する可能性を伝えてくる写真。すなわち色(物質)即是空(エネルギー)が伝わってくる写真で、写真の曼荼羅世界を作ること。それが風の旅人の目指す試み。

2011-01-04 08:30:31
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

現在、巷に溢れている多くの写真は、色(物質)と空(エネルギー)が切り離されている。物質だけを固定する写真をカタログ写真と言う。それらは色(物質)に対する人間の意識を固定化する。物を売ってなんぼ、という社会で重宝されるのが、そういう写真。

2011-01-04 08:36:13
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

一方、物質(色)をはっきり写さず、エネルギー(空)らしきものだけ写す写真もある。それはカタログ写真に対するアンチテーゼでしかない。エネルギー(空) から物質(色)が生じてくる可能性が伝わってくるかどうかが大事。色即是空という宇宙の根本原理を伝える写真が、視覚の歪んだこの国に必要。

2011-01-04 08:45:58
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

高野山から戻ったばかりですぐ東京で仕事が普通にできている自分。昔、旅をさんざんやってきたことが、環境変化への適応力につながっているのだと思うよ。切り替えの速さには自信がある。色即是空。

2011-01-05 01:04:20
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

今日、次号の校正刷りなどを見たり改めて最終ページの今月号の総括を推敲しながら、この時期に高野山にこもったのは、まさにこの時期でこそというタイミングだったことを再認識する。作っている時は気づかなかったが、この一冊に密教のエッセンスが詰まっている。密教という言葉はどこにもないが。

2011-01-05 01:12:41
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

プラトンの説く形而上的普遍価値をアリストテレスが否定して、真実は状況によって異なり、それを観念ではなく実践で掴むことを説いたのと同じ時代、老子(道教)や孔子(儒教)が説いた無や仁の絶対的な尺度に対し、荘子(道教)や孟子(儒教)が相対的な尺度で説き直している。真実は状況次第だと。

2011-01-05 17:17:19
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

プラトン、老子、孔子の生きたBC5、6世紀は、ギリシャも中国も、同族・同種の共同体が生活基盤。アリストテレス、荘子、孟子の生きたBC4世紀頃は、現代のように異なる民族が混ざり合い、グローバリゼーションが起こっている。結果として、真実が絶対的なものから相対的になっていったのだろう。

2011-01-05 22:53:12
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

1200年前の曼荼羅を現在に持ってきても、1200年前の人と同じように感じる事はできないと思う。なぜなら、仏の図像一つとっても、そこから受け取る意味の深さが、現代人と当時の人ではまるで違うからだ。驚きや畏怖や胸のつかまれ方が違う。結果として、世界像の受容の仕方が異なってくる。

2011-01-07 06:56:34
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

1200年前、空海(密教)は、その当時、この世に形あるものとして存在していたものをフルに活用して、言葉では簡単に捉えきれない宇宙の根本原理をイメージで示そうとした。道教など仏教以外の思想や当時の科学的知識を取り込んだり組み合わせたり。その結果としての曼荼羅であり、高野山なのだ。

2011-01-07 07:02:14
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

最澄達のように釈迦の言葉を勉強し宇宙の真理を理解しようとしたアカデミックな人達は、どこまでいっても釈迦に達しない。空海は、釈迦が感得した宇宙の真理を同じように感得する為、釈迦の言葉さえ、この世に数多ある形式物の一つとして受容し、他の形式物との編集で真理を浮かび上がらせようとした。

2011-01-07 07:13:20
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

すなわち空海は、最澄達と違って釈迦の境地に達していた。最澄達のように釈迦から学ぶことに生涯を費やすのではなく、釈迦の境地に立ったうえで、その当時、形あるものをフルに活用して真を人々に伝えることに生涯を費やし、それでもまだ不完全なので、みずから仏になって、影響力を持ち続けている。

2011-01-07 07:21:52
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

教科書では、最澄と空海は、ほぼ同格のように扱われているが、圧倒的な差がある。最澄は、唐で密教を学ぶ機会が得られなかったから仕方なく空海から学ぼうとしたのではない。空海は、密教の唯一の正当な後継者として唐で認められた人物であって、最澄がその場にいても、そうはならなかっただろう。

2011-01-07 07:31:57
風の旅人編集長 佐伯剛 @kazesaeki

だからといって、空海の言葉を学んでも、釈迦の言葉だけを学んでも宇宙の真理はわからないと空海が察したとおり、それだけではダメだ。現代は、空海の時代とは違う形になっており、同じ形から受け取る情報の意味の深さが違うし、当時と違う形の中に、意味の深さが同じものがあったりする。

2011-01-07 07:42:14