東洋と西洋

自分で読むため
0
島薗進 @Shimazono

@tomatsudaira 憲法学と国家神道という論題では、日頃のご教示に感謝。一橋の先生方に社会哲学と憲法学は隣り合わせとうかがいました。お手柔らかにお願いします。

2011-01-09 20:42:44
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono 先生の信念の固さに感服するも、前の議論で申し述べた愚見をくりかえさざるをえない。近代国家が近代以前との決定的な違いは、つねに国際競争をしていてかつそのことを国家(政府)が過剰なまで意識している点。富国か強兵が目的の競争は権力と正統性の一極集中を求める。(続)

2011-01-10 06:59:04
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (2)それは政治の集中でもある。政治的対立や結合に役立つなら、伝統社会の仕組み・価値は都合よく利用され、あるいは否定される。利用された伝統には近代以降の胎動が吹き込まれ、否定された伝統に創られた伝統が取って代わる。これをシュミットがenglobeとよぶ(続)

2011-01-10 07:07:57
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (3)相撲取りが日本相撲協会として近代化するが、中世芸能・職能民集団の特徴を残しつつ近代的な法人化を遂げてしまった。このようにenglobeされている以上、近代と近代以前、そして和風と洋風とが分かちがたくくっついており、ハイブリッドな固有生命が展開される(続

2011-01-10 07:13:29
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (4)この前言及された原武史氏の仕事も原理的に同じと思う。集権の不都合を和らぐために近代国家が用意したのは、権利保障・権力分立を定める法治主義、立憲主義。明治国家についていえば、機関説的な国家理解と平民への将校・官吏就任権保障が加わる。官僚制の誕生(続)。

2011-01-10 07:23:18
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (5)戦後軍事官僚制はなくなったが、明治以来の官僚制は国家理性を体現する存在。国際競争に勝てる国家像、そのため社会の力を動員する方法をつねに模索。だからこそ戦前の軍部・革新官僚は、日蓮でも惟神の道でも近代の超克でも、使えると思ったら接触・介入したわけです(続

2011-01-10 07:31:01
島薗進 @Shimazono

@tomatsudaira (1)~(11)ご教示に感謝。近代的な制度の堅固さとその習得の重要性、軽視しがちですね。が、日本の近代の政教体制の特徴とそこでの伝統思考への注目は両立しましょう。また、伝統なるものがいかに内外、多様な要素を含んでいるか、それも忘れないように。

2011-01-10 09:02:44
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono 異存はありません。30年前のジュリスト増刊ご論文を拝見したとき、いったんは洋風という段階を島薗先生がすでに終えられていると思った次第。「日本の近代の政教体制の特徴と伝統思考への注目は両立」「伝統なるものがいかに内外、多様な要素を含んでいるかも忘れないように」

2011-01-10 10:34:27
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono 「非西洋」の思想をという発想自体、西洋的と思います。東洋的、アジア的、日本的、中国的というとき、そこに素朴な違和感・敵愾心と、したたかな政治的計算の両方を感じます。鈴木大拙と論戦を繰り返した胡適は、そういう「東洋」論にきわめて批判的でした。(続)

2011-01-13 08:22:14
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (2)最晩年の彼がユネスコ関係の会議で行った演説。西洋文明は物質中心だが東洋文明にあるような精神性がないとはまったくナンセンスだと。千年にわたって女性に纏足を強いていた文明、貧しさで死んでいく老婦に念仏や来世を説く文明、個人の尊厳をわがままと断罪する文明(続

2011-01-13 08:41:41
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (3)そんな文明のどこに「精神性」があるというのか?と。私は留保なしで胡適を支持しているわけではないが、彼の場合、儒教的な道徳規範-誠実・謙虚・人の悪口を言わない、寛容さ、つまり人間関係では決め付けないという「精神」を生き方として貫いたと思います。(続)

2011-01-13 08:56:10
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (4)また、法哲学の長尾龍一さんのように、個人の尊厳ってそんなに尊いのかとの疑問や反発から非西洋に走る傾向があるが、けっきょく、いまある社会・集団・権威に楯突くのはよくないという文脈で、非西洋的ななにかが称揚されることが多いことも事実です。(続)

2011-01-13 09:05:14
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (5)しかし、国家・法制度・マーケットからスポーツ・音楽にいたるまで、洋風の原理で固めておきながら、人格と権利が問題になるときだけご都合よく和風にというのは可能なのでしょうか。西洋の「物質性」を法律についていえば、公物・訴訟物というときのSacheですが(続

2011-01-13 09:15:44
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (6)物・事というsachlichな概念に依存しなければ法制度は成り立ちえません。経済学については門外漢ですが、財概念ぬきには語れないのではないかと思います。野球やサッカーについては、日本的適応はあり得ても競技ルールを東洋風に、和風にというのはありえない(続

2011-01-13 09:22:44
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (7)むしろスポーツの世界では、西洋性が強固な所与になっているからこそ歪んだかたちで「精神性」が強調されるというのが愚見。長く楽しめるための合理主義的な方法(筋トレ)だけでは勝てない、勝てないと指導者の首が・・・というのは、東洋的でもなんでもないのです(続

2011-01-13 09:29:18
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (8)指導者がみんなそうだと言いません。しかし、戦前の「月月火水木金金」的な精神力をつけるための鍛錬、礼儀作法をへてプロに入ったとたん、なぜ多くの選手が「日本的美徳を捨てて」年俸や海外移籍の「物質性」を抱擁するようになったのか。非西洋が答えをもっているのか。

2011-01-13 09:43:45
島薗進 @Shimazono

(1)~(8)感謝。西洋対東洋という言説パターンの欠点にはほぼ同意。文明・文化、生育環境の違い等により、身につき実際に機能している価値観、死生観等の違いがあるのは事実なので、それを踏まえて思想を練って、多様性を踏まえた共存様式を探ろうという考えです。@tomatsudaira

2011-01-13 23:28:25
島薗進 @Shimazono

共鳴。胡適や福沢は近世東アジアの基盤をもつからこそ思想の奥行きが感じられる?@tomatsudaira 留保なしで胡適を支持しているわけではないが、彼の場合、儒教的な道徳規範-誠実・謙虚・人の悪口を言わない、寛容さ、つまり人間関係では決め付けないという「精神」を生き方として貫いた

2011-01-13 23:38:23
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono こちらこそ恐縮です。胡適は、親に押しつけられた結婚も左翼と保守派からの人身攻撃も終生寛容さで耐えた。寛容は自由より大事だと。唯一彼が我慢ならんと言ったのは、知ろうとしないで知ったかぶりの権威やブランドに頼るという意味の無知。私の憲法の師も似たことを言った(続

2011-01-14 07:15:38
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (2)「物ひとつ知らずこれ儒者の恥」とか、(吉田松陰も好んで引いていた文天祥の辞世)聖人賢者の書を読んで「学ぶところ何事ぞ」とか、「君子は言を以て人を挙げず人を以て言を廃せず」(論語衛霊公)とか、いい言葉はいっぱいあるが、中国語圏でも守られていなかった。(続

2011-01-14 07:26:40
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (3)支配的権威、ブランドの権威を疑わないだけでなく、そうでないものから学ぶこともしない。知ったかぶりで自分も相手も考えずにすむ「思考経済」に持っていけば無知を正す必要もなくなる。蓮實重彦氏が予備校生に説明していたことです(『映画からの解放』1988)(続)

2011-01-14 07:36:49
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (4)昔はそう言われて態度を改めたかどうかは判らないが、そういうディシプリンないし倫理が必要ということには反対しなかったでしょう。しかし、日本では不毛だったといわれている学生運動の遺産なのかもしれないが、そんなものはナロード(人民)の声を抑圧する偽善だと(続

2011-01-14 07:47:56
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (5)思想・思考の奥行きを否定し、無知でかまわんと居直る人たちが政治社会を担うようになった。彼らはそれなりに勉強しているつもりであろうが、それは彼らの、知の道具的性格への冷笑的な視線と対抗言論への敵意を裏付けるものでしかなかった。続いてマスコミ(続)。

2011-01-14 07:58:54
T. Matsudaira @tomatsudaira

@Shimazono (6)政治思想史の某先生はあるとき、大学担当記者の無知に苦言を呈したが、それは中身だけでなくディシプリンについてそう言ったと思います。しかし表現の自由・報道の自由は裏返せば政治的権力。政治は、問答無用。国民と消費者の「論理」に非西洋はどう応答するでしょうか。

2011-01-14 08:08:58
島薗進 @Shimazono

(1)~(6)敬意をもって拝見。儒学や西洋近代の「奥行きある知」と現代の公共哲学的知の違いは生活経験に即した知の重視。草の根の声とフィールドの知を反映する思考は乱れているように見える?@tomatsudaira 思想・思考の奥行きを否定し、無知でかまわんと居直る人たちが政治社会を

2011-01-14 10:12:29