修行僧たちは私に何を期待するのであるか。私は内外の隔てなしにことごとく理法を説いた。全き人の教えには何ものかを弟子に隠すような教師の握り拳は存在しない(大パリニッバーナ経,第二章 25)
2011-01-18 23:13:57アーナンダよ。私はもう老い朽ち、齢を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。例えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らく私の身体も革紐の助けによってもっているのだ(大パリニッバーナ経,第二章 25)
2011-01-19 08:14:21しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき彼の身体は健全なのである(大パリニッバーナ経,第二章 25)
2011-01-19 13:12:26それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ(大パリニッバーナ経,第二章 26)
2011-01-19 18:12:58ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである(大パリニッバーナ経,第二章 26)
2011-01-19 23:12:58心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである(大パリニッバーナ経,第二章 26)
2011-01-20 08:14:01このようにして修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである(大パリニッバーナ経,第二章 26)
2011-01-20 13:12:26今でも、また私の死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らはわが修行僧として最高の境地にあるであろう(大パリニッバーナ経,第二章 26)
2011-01-20 18:12:25無相心三昧・想受滅・涅槃・解脱・ダンマの顕現のこと RT Buddha_Words: しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき彼の身体は健全なのである(大パリニッバーナ経,第二章
2011-01-20 23:39:05法とはダンマのこと。直接体験するもので、形なきいのちなかのいのち、というべきもの。 RT Buddha_Words: それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ(大パリニッバーナ経
2011-01-20 23:42:00ダンマの顕現・涅槃の境地 RT Buddha_Words: 今でも、また私の死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らはわが修行僧として最高の境地にあるであろう
2011-01-20 23:43:52四念処という行道、心→ダンマ・法RT Buddha_Words: 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである
2011-01-20 23:48:49涅槃・浄土の境地 RT “自然法爾(じねんほうに)のこと。「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。”『親鸞聖人御消息』
2011-01-20 23:50:12【仏教】原始仏典のブッダも、親鸞も、仏教学者・玉城康四郎も、その体験しているものは同じ。ダンマ・法身・形なきいのちそのもの。ダンマの顕現の体験が仏道の原点。
2011-01-20 23:59:34【玉城仏教】ダンマの顕現・無相心三昧・涅槃・解脱の境地になれば、道の完成者となるのか。否、ならない。解脱に徹底しても、残るものがある。それは六処を具える身体。それの真空を実現しなければならない。この身体を業熟体という。親鸞のいう宿業と同じ。業熟体は無辺、底がなく深い。無尽。
2011-01-21 00:17:33【玉城仏教】ダンマにいかに徹底しようとも、業熟体は尽きることがない。ダンマに習熟し、日常においても、ダンマに住することができても、もとの「私」のまま。その「私」がダンマ・如来とともに歩んでいくこと。それが仏道である、と最晩年の玉城は言った。「如来と二人連れで歩む」。玉城の到達点
2011-01-21 00:28:46【玉城仏教】玉城はもとの「私」であることを、もっと徹底して説くべきであった。そこに揺らぎがあるから。如来に徹底することの、負の側面に自覚できであったか。それを強調することがなかった。玉城仏教のさらなる前進はその点を扱うことから、始めなければならないというのが、私の主張である。
2011-01-21 00:37:06