ポルノ批判は、「セックス」しない文化・社会に対しては成立しない?

ブログへのコメントです。
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身内を寄せ付けない人 @sadao_hok_kaido

「フェミニズムによる短絡的な二次元表現批判は、『セックス実践文化』の責任転嫁以外の何物でもないのです」: オタク男子が本気でフェミニズムの論理を突き詰めてみた ~ラディカル・オタク・フェミニズム試論~ - 恋愛自給自足の間 minadt.hateblo.jp/entry/2015/12/…

2015-12-27 18:53:22
身内を寄せ付けない人 @sadao_hok_kaido

昨日書いた記事の告知ツイートをしてからフォロワーが五、六人減ったことを受け、何か誤解された気がしたので一応言っておきます。私はアンチフェミにもアンチオタにも与するつもりはありません。 #オタフェミ

2015-12-28 19:08:20

*ねこのコメント

今回の私の批判点はシンプルで、『フェミニズム的な二次元表現批判は、セックスをしない社会・文化では成立し得ない』というのは誤りである、ということです。

まず、『ポルノグラフィは、「女性とは何者であるか」を規定する力を持っている』を、『ポルノグラフィは、「女性とは、セックスの時に使用されるものである」という価値観を形成します』と言い換えるのは不用意でしょう。(そもそも氏が「セックス」をどう定義しているのかが不明だが、「三次元実在の他者の身体と自身の身体を使う性的行為」としておく。)マッキノン的批判者が、ポルノの向こう側に「セックス」が必ずあると前提している(つまり、ポルノをセックスの代替物と捉え、ポルノ=学習/セックス=実践と見なしている)とは言えるかもしれませんが、だからといって、ポルノ批判の射程が論理的に狭まるということにはなりません。『ポルノグラフィは、「女性とは何者であるか」を規定する力を持っている』というのは、いわば「性的モノ化」を問題視しているのですが、「性的モノ化」が論理的必然として『「女性とは、セックスの時に使用されるものである」という価値観』を経由するというわけではありません。性的モノ化は「女性とは性的に使用されるものである」という価値観を基に成り立つとは思いますが、氏は、上記の「言い換え」によって、「その『性的に使用される』というのは、生身の身体としてということである」という条件を勝手に忍ばせています。ということで、『女性とは、セックスの時に使用されるものである』という部分を、「女性とは、性的に使用されるものである」と読み替えます。

さて、ポルノが『社会の「女性観」にも影響を及ぼす』と言うとき、ポルノが「女性とは、性的に使用されるものである」というプロパガンダとして機能することの何が問題なのでしょう?勿論、その女性観自体が不当であり、暴力的性行為の模倣も問題でしょうが、「一体誰が、ペニスを口にくわえた女性の言うことに耳を傾けるだろうか?」というマッキノンの言葉が象徴的であるように、マッキノンは「沈黙」の記述に注力していたのではないでしょうか。「沈黙」の問題の根源は、「性的モノ化」された女性は「主体」と見なされないということではないでしょうか。つまり、マッキノン的批判によれば、『「女体=性的なもの」というレッテルを貼られることが、女性とは「公的に価値のないもの」だという烙印に結びつく』というよりむしろ、女性の性的さが「価値のあるもの」とされているにもかかわらず、その価値は性的モノとしての価値でしかなく、男性と同等の「主体」とは見なされない。そのとき、「主体」として「現実」を生きることができるはずがない(とされる)女性が語る「現実」は、低い認識論的地位しか与えられず、消音(沈黙化)され無効化されるわけでしょう。こうした問題意識は、「あることを皆さんにお願いしようと思う。つまり、女性にとっての現実は現実であると想像して見てほしいのである。」(『ポルノグラフィ』: 24)という言葉からも読み取れるように思います。以上のような批判の射程には、セックスをしない人々も含まれると思います。

「ポルノグラフィが、『女性とは、性的に使用されるものである』というプロパガンダとして機能する」という主張が道理にかなっていると言えるために、『「人間は皆セックスをする」という前提』は必要ではありません。『「女体は性的に使用するものだ」という言説がプロパガンダとしての機能を持ちうる』のは、人々が実際に女体を使用する場合のみではありません。『「セックス実践は必要ない。ポルノで充分」という層』も、「女性とは、性的に使用されるものである」という認識を学習しえます。三次元実在女性を性的対象と見なさない人々(二次専)に関しても、「女性」表象を性的に享受している人々はいるのですから、もし、二次専のみを批判対象から逃れさせたいのなら、「二次専は、二次元『女性』表象から現実(実在三次元)の女性へ認識的影響を受けない(受けにくい)、そしてそれは二次専に特有のことであり、二次専でない人々がポルノ(性的ファンタジー)から現実の女性へ認識的影響を受けない(受けにくい)ということとは別のことである」、ということを示すしかないでしょう。

『フェミニズム的な批判の肝は、「非性的であるべきとされる公的領域で、女性が『性的なもの』というラベルを貼られることによって損失を被る」という点にあります。ですがこれは、現実の女性を性的対象とする「セックス実践文化」特有の問題と言わざるを得ないでしょう。』
上記の批判論理から分かると思いますが、『フェミニズム的な批判の肝は、「非性的であるべきとされる公的領域で、女性が『性的なもの』というラベルを貼られることによって損失を被る」という点にあ』るとは必ずしも言えませんし、それが『「セックス実践文化」特有の問題』であるとも言えません。
また、『現実の女性を性的対象とする「セックス実践文化」特有の問題』と述べていますが、『セックス非実践文化』には『「セックス実践は必要ない。ポルノで充分」という層』も含まれるわけですから、「現実(三次元実在)の女性を性的対象とする」ことの問題であるならば、その射程に『セックス非実践文化』も若干入ることになります。

ちなみに……。
『セックスを実践するには必ず他者を必要とします。つまり厳密に言うと、セックスは純粋に孤独な「私的領域(プライベート)」ではなく、複数の人が関わる「公的領域(パブリック)」での行為なのです。』
性=私的領域とする認識や、ある特定のセックスのみを神聖視(正常視)することが問題であるというのは妥当な指摘だと思います。しかし、他者を必要とする、複数人が関わると必然的にその行為が『公的領域(パブリック)』に入るというわけではありません。

身内を寄せ付けない人 @sadao_hok_kaido

はてなブログに投稿しました #はてなブログ 応答:二次元表現に対するフェミニズム的批判が成立するための前提条件は何か - 恋愛自給自足の間 minadt.hateblo.jp/entry/2015/12/… pic.twitter.com/ZQNjwloBbM

2015-12-31 12:13:49
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