- ntrllymindbrain
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なるほど。RT @yuizumi: @* @tossijp 他の偶然の例えとしては,plural logicをなぜ使わずに,plural entitiesを存在論にもちこむのか,といった問が考えられます.われわれはただクワインの影響を受け続けているだけではないのか,と
2011-01-10 02:32:31@wataruu @naritahiroki @tossijp 僕は「意味論」をどう定義する*べき*かについてはあまり個人的主張はありません.しかし,もし意味論研究者がチョムスキアンならば,意味論は一種の心的表象がどう操作されていくかの理論となります.したがって統語論的なものです
2011-01-10 02:56:13@wataruu @tossijp 含意関係をもつその対象がなんなのか,という点が重要だと思います.心的表象であるのか,世界に含まれる具体的事物そのものであるのか,あるいはなんらかの抽象的な構造であるのか.
2011-01-10 02:58:56同意です。RT @yuizumi: @wataruu @tossijp 僕は「意味論」をどう定義する*べき*かについてはあまり個人的主張はありません.もし意味論研究者がチョムスキアンならば,意味論は一種の心的表象がどう操作されていくかの理論となります.したがって統語論的なものです
2011-01-10 03:00:04今日はさすがに遅いのでもう寝ますがこの辺の問題についてはまた僕ば僕でブログを書かせていただくかもしれませんのでその際はまた。
2011-01-10 03:01:19@wataruu @tossijp @naritahiroki もし意味論の研究対象がある種の心的表象がどう構築されていくのか,ということならば,(フォーダー的あるいは標準的認知科学観をとるならば)それは計算の研究となります.したがって(広い意味での)統語論となります.
2011-01-10 03:03:15@wataruu @tossijp @naritahiroki さてそして哲学者は,「意味論」をそのような心的表象の研究としては捉えてこなかった,というわけです.そこでわれわれの今の議論にはいろいろなテンションやこれからどうすべきかというおもしろいトピックが眠っています.
2011-01-10 03:06:09@yuizumi @naritahiroki 意味論的対象が心的表象だとして、具体的な形式意味論の成果の多くは、そのような心的表象の計算に関する理論として翻訳可能だと思います。
2011-01-10 03:06:10@yuizumi @naritahiroki そのような心的表象に関する理論が、チョムスキーの求める「統語論」が果たすべき制約を果たしているかどうかは別の問題ですが。これに関しては僕はよく分かりません。
2011-01-10 03:08:37@yuizumi @naritahiroki internalismをとるとするなら、モデル理論的意味論を採用する「必要がなくなる」という主張であるなら賛同するかはともかく理解できるのですが、internalismとモデル論的意味論はincompatibleではないのでは。
2011-01-10 03:11:35@wataruu @naritahiroki 同意です.僕もよくわかりません.どんな制約があるのかもわかりません.果たすべき制約とかそういう考慮に関して意味論学者は結構敏感であるイメージもあるんですけどね.CGとかはとくに敏感なのでしょうか?
2011-01-10 03:13:48そう思いますよ。その翻訳はつまりsyntaxにするということですね。用語の問題ですが。RT @wataruu: @yuizumi @* 意味論的対象が心的表象だとして、具体的な形式意味論の成果の多くは、そのような心的表象の計算に関する理論として翻訳可能だと思います。
2011-01-10 03:15:19@wataruu @naritahiroki モデル論的意味論と内在主義はまったく矛盾しないです.領域が含むものを心的表象とみなすか,意味の理論は一種のモデルである,とすることもできます.
2011-01-10 03:16:07そう、そう問うならそれは別の経験的問題です。「なぜその二つの心的計算がかくも違う姿をしてるのか」という。RT @wataruu: @yuizumi @* そのような心的表象に関する理論が、チョムスキーの求める「統語論」が果たすべき制約を果たしているかどうかは別の問題ですが。
2011-01-10 03:18:27もしモデル理論で行かねばならなくて、よってそう問うのが必要ならば、可能ならそこにシンプルな説明を求めたいですね。ミニマリズム。RT @* そう、そう問うならそれは別の経験的問題です。「なぜその二つの心的計算がかくも違う姿をしてるのか」RT @wataruu: @yuizumi
2011-01-10 03:20:34そうですね。モデル理論が意味の研究上本当に必要かどうかは僕は知りませんが、というだけのことです。RT @yuizumi: @wataruu モデル論的意味論と内在主義はまったく矛盾しないです.領域が含むものを心的表象とみなすか,意味の理論は一種のモデルである,とすることもできます
2011-01-10 03:22:18@naritahiroki @wataruu まさに.歴史と偶然の点を強調すれば,もちろんわれわれはデイヴィドソンとそのフォロワーたちはモデル論的意味論に反対してきたことを思い出します.が,現在を切り取ったときに少数派である,というだけです.今後どうなるのかは誰にもわかりません.
2011-01-10 03:27:13これで最後にします。つまり統語との関係をひっくるめた上で意味の問題に取り組み、そこにbest possible answerを求めようという研究態度で臨むなら、「そもそも意味の問題をどう問うか」という問題そのものに真剣な吟味をもって臨むべきと思うのです。
2011-01-10 03:28:32単に一部の文献上の慣習に倣うだけではなく、モデル理論的に意味の問題を問うことがbest answerを求める研究方針上最良の策なのか、ということを考えたい。もしそうだと分かればその時こそ僕は諸手を上げてモデル理論(という統語論)を受け入れる。
2011-01-10 03:33:42そしてこういうオープンな問題に対して、「とりあえずは兎にも角にもモデル意味論で記述を進めていくのが当面は一番効率的」という研究上の予断を持つ方がいればそれはそのようにしてくださればいいと思う。GBと同じ。決してモデル理論という心的計算の理論は所与ではない、それだけのことです。
2011-01-10 03:36:23同感ですRT @yuizumi: @wataruu 歴史と偶然の点を強調すれば,もちろんわれわれはデイヴィドソンとそのフォロワーたちはモデル論的意味論に反対してきたことを思い出します.が,現在を切り取ったときに少数派である,というだけです.今後どうなるのかは誰にもわかりません.
2011-01-10 03:37:43今日は色々と勉強になりました。ありがとうございました。さすがに遅いので寝ます。おやすみなさい。
2011-01-10 03:40:50@yuizumi @wataruu @tossijp @naritahiroki 計算の研究ではなく、計算のモデルの研究ですね。
2011-01-10 04:21:20@yuizumi @wataruu @naritahiroki 意味論は心的表象その物を対象としているわけではなく、言語による心的表象の 記述を目的としている、というふうには見れないんでしょうか?
2011-01-10 04:24:58@yuizumi @wataruu @tossijp @naritahiroki 記述のために強力な道具立て事に反論するならば、「たかが量子にヒルベルト空間が必用か」なーんて言ってもよいことになりますね。記述(そして一般化)できるかどうかがまず大事でしょう。あとはオッカム先生で。
2011-01-10 04:29:56