私的同田貫関連備忘録
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ということで図書館行って『江州刀工の研究』借りてきます。「同田貫正国と清正の関係」とか「下坂八郎左衛門と同田貫上野介」とかおさめられてるから、いろいろ震えがきそうな予感
2015-05-29 13:54:25『江州刀工の研究』岡田孝夫(2006,サンライズ出版)
同田貫に言及しているのは
「下坂八郎左衛門と同田貫上野介」及び「同田貫正国と清正の関係」
文章はたしか『刀剣美術』が初出だったような。
(古書店でチラ見したけども購入はしなかったので記憶がウロです)
岡田氏はこの書籍の中で
正国銘時代 天正八年二月日、天正八年十一月吉日の2口
上野介銘時代 文禄五年正月吉日、慶長六年八月、慶長十六年八月日の3口
上野介正国銘時代 慶長十八年八月吉日の1口
を挙げ、初め正国と切り→朝鮮出兵頃を境として上野介のみを刻むようになり→最晩年に至って上野介正国と個名を記している、と指摘している。
なお、福永氏によると、信賀銘を切った作の押型が「如手引抄」にあるという(未見です)
また、『小山家系図』の正国の箇所には以下の通り記されているそうです。
「小山上野助 信賀 後正国ト改
梵字三個と草のクリカラの図。
篆・隷・楷の三体で「肥州同田貫住政国」という銘字。
延寿国吉と国時のナカゴの図。」
これについて福永氏は
「さらに正国が『政国』と銘した時代のあったことは、従来の刀剣書にまったく見当たらない新知見として、大いに興味のあるところである。」
としています。
(いずれも福永酔剣「肥後刀工史(十)」 『刀苑』第9巻第6号)
政国と表記していた時期があったのか、なかったのか……。
福永酔剣『日本刀大百科事典』に(同田貫)清国さんの話が載ってたんだけど、「島津氏が肥後を占領していたころ薩摩に連行され、現在の伊佐郡伊佐町で鍛刀していたらしい」とあって→
2015-05-29 18:58:22→さらに、「作品はいわゆる同田貫風の豪刀ではなく、姿尋常なものが多い。地鉄も肌立たず、刃紋も穏かなものを焼く」とあって、文系寄り(※ゴリラでないとはいってない)清国さんを想像していた俺氏大歓喜ですよ
2015-05-29 18:59:18注:近代デジタルライブラリー(以下近デジ)及び2016年近デジと統合予定の国立国会図書館デジタルコレクションには、『古今鍛冶備考見出』とそれを所収した『刀工概論』が収められています。
『刀工概覧』所収「古今鍛冶備考」によると、「清国 3 (※3人いるよ の意)」1:防州二王 永正 2:肥後同田貫 天正 3:薩州 慶長 本国肥前 とある。 この2人目と3人目が同一人物じゃないかという説があるのね
2015-05-29 20:04:58注:『古今鍛冶備考』凡例に「古刀ハ圈の印、新刀ハ鱗乃印を冠らせて新古を」(わかつ?)とあるように、○印がついているものは古刀、△印は新刀に分類されています。これは『古今鍛冶備考見出』も踏襲しています。
刀工「同田貫正国」
以下引用 ……正国が上野介国広の子・信賀に与えた製刀秘伝允許状に、次のようなものがあるという。 「(前略)右相伝 九州肥後国玉名郡伊倉村南方 木下右京亮授之 元亀三年壬申二月吉日 正国(花押)→
2016-03-05 18:11:43元亀三年といえば、加藤清正が肥後に入国した天正十六年より、十七年も昔のことになる。すると、清正の片諱説は成立しなくなるが、この允許状というのは偽書であろう。→
2016-03-05 18:13:17としたうえで、理由として ・書式が刀鍛冶の伝授書の形式になっていないし、そもそも江戸時代以前に刀工が伝授書を出した形跡がない ・木下右京亮には住所を細かく書いているけども正国には何にも記録がない。釣り合いがとれず不自然。そもそも伝授書に住所を書いた前例がない→
2016-03-05 18:15:21・宛名が書いてないのもおかしい ・『小山家系図』に明記されているとおり、信賀は正国の前名なので、晩年の自分が若い自分に伝授書を出していることになる ・信賀の父は『小山家系図』によれば上野介国広ではなく善四郎為秀 であることをあげている(『刀苑』第9巻第6号)
2016-03-05 18:20:21まあ、何度もつぶやいてるけども、なにせこの文章が発表されたのが昭和48年だからなあ……(遠い目) 今回の玉名市での講演で、なにか新事実が出て「やっぱこの允許状本物でしたわ」ってことになったのか、あるいはそうでないのかが気になるー
2016-03-05 18:22:20(ちなみに、岡田氏の『江州刀工の研究』が上梓されたのは2006年だけれども、各文章の初出はやっぱり昭和40年代とかです)
2016-03-05 18:24:31福永説によれば、加藤家から二千石を貰ったという文書も「偽書と断定するほかない」 天正八年の裏銘の同田貫銘刀も「筆者も実見したが、偽銘であった」とぶった切っていらっしゃって、その天正八年銘のものは岡田せんせが書いてらっしゃる二口と同じものですか違うものですかと震えるばかり
2016-03-05 18:32:26熊本城と同田貫
メモ:古器旧物保存方が布告されたのが明治4年5月23日、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)が布告されたのが明治6年1月14日
2015-11-15 02:34:49M6の時点でほとんどの御城備は払下げられたんじゃないかと推察。よしんばその時転出してなかったとしても、M9の神風連の乱で鎮台が一時制圧されたりしてるし、当時の情勢をかんがみると武器の類はあまり残しておきたくないんじゃないかなあ。熊本行くなりして調べないと確たることは言えないけども
2015-11-15 02:50:26注:Web文芸誌「片隅」内にある青木さんのコラム(http://m.kaji-ka.jp/daily/columns/yoshinagotu/3145)でも御城備のほとんどが明治6年の廃城令以降転出されただろうと書かれていました。
※余談ながら、熊本城調査研究センター(敬称略)が飯田丸の発掘調査に関する報告書をまとめていらっしゃいます。(http://www.city.kumamoto.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=5566&class_set_id=2&class_id=252)
小銃の未使用弾丸が出土したことが載っていてソワァ。