私的同田貫関連備忘録
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aeronaut_m_a
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別アカのフォロワーさんから回ってきたのでぺたり どの名鑑か忘れたけど、同田貫一門に同名刀工がいた的な記述があった気がする。清光とか兼元みたいに、○代目、みたいな感じなんだろうなと勝手に思ってたけど、そういう史料が出てきたのかな
2015-12-15 02:58:00![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
見た覚えがあるのは、上野介以降の「正国」だったような気がするんだけど、肝心の名鑑が見つからない件について。どれだこんにゃろめ
2015-12-15 03:03:46![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ああこれかな。『刀工総覧』148コマ目 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid… 薩州正幸門(伯耆守正幸の門人)ってことは9代目の正勝のことかしら。 しかしこれ、正国=左馬介って書いてあるし、ううむどこまで信用していいか。古いしなあ
2015-12-15 03:21:24![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「古今鍛冶備考」中の 正国 (前略)肥後同田貫天正、同慶長 という記述を、一人の刀工の連続した時間と捉えるか、天正年間に正国と名乗る鍛冶がいた、慶長年間にもいた、つまり正国は同田貫派の中に少なくとも二人いた、と考えるか
2015-12-15 03:32:48![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
国文学研究資料館版の『古今鍛治備考』だと慶長と天正の「正国」は同じじゃないかなーという捉え方に近いんだけど、『刀工概覧』所収「古今鍛冶備考見出」だと“肥後同田貫天正、同慶長”と単なる並記になってるなあ
2015-12-22 03:49:32![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それより、原典の方の「正国」のちょっと後にある「正明 ○同田貫ーーと□(※この字いったい何て読むんだろう) 肥後天正此業物 ○日本一ーーと□物多ーー肥後松倉住同田貫一派天正此と云」 の方が気になってな
2015-12-22 03:54:31注:天正此ではなく天正比(てんしょうのころ)ではないかと後で気がつきました。
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気になるのは伊地知正幸の門人に 「称小山右兵衛肥後同田貫ノ末(小山右兵衛と称す 肥後同田貫の末)」 ってあること。正勝も「正国」を名乗ってたっぽいのかしらな (伊地知の三代正良――のち正幸。伯耆守正幸――の門下に入ったのは正勝) 国文学研究資料館『古今鍛冶備考』33~34コマ目
2015-12-22 08:40:14※余談ながら、伯耆守正幸の息子も「正国(初銘正良)」
上野介正国の待遇について
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それにしても、『刀鍛冶の生活』は買って損じゃなかった。刀鍛冶の懐具合とか、受領とか、いろいろ面白いことが書いてあって読んでて飽きない
2015-12-15 04:21:56![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
これによると上野介正国の労働条件ってけっこうブラック気味というか、あの、その、清国兄ちゃんが廃業したのってもしかしてけっこう経済問題関係あるんではという気になるというか
2015-12-15 04:27:20![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
『加藤家々臣石高帳』によれば、鍛冶頭九人で三一人扶持しかもらっていない。一人平均三人扶持半ぐらいにしかならないから、先祖正国に較べれば、宗広の五人扶持はまだいいほうであった。(『刀鍛冶の生活』p64)
2015-12-15 04:34:54![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ただ、扶持は少なくても、長船祐定みたいに「打った刀は全部お買い上げ」とか「家の普請をするときは材木がいっぱい貰えた」という扱いをされてたのだとしたら、固定給は少なくても収入は多かった可能性はある。このあたりは加藤家の帳簿等を見ないとわからないけども、そこまで厚遇されてたかなあ
2015-12-15 04:41:53![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
室町~幕末の刀の値段の推移を見ると、名が知れた名工でさえ「あ、数こなさないと生きていけませんね……」というあれやそれや(ろくろ)
2015-12-15 06:01:55※余談ながら以下も刀鍛冶の待遇のはなし。
(『刀鍛冶の生活』に載っていたものです)
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ぶっちゃけ備前や関、肥前だって、修行中の刀鍛冶が稽古打ちの刀を問屋に持っていって、それを荷駄いくらで奈良の業者が買い付けて偽銘を切って売った、みたいなことやってるわけで
2015-08-20 14:58:00![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「そうでもしなければ食っていけない」という刀鍛冶さんたちの困窮に落涙せざるをえない 加州清光(6代)なんて、貧乏が極まるあまり妻子連れてお救い小屋に入ったくらいですしな……
2015-08-20 15:09:58同田貫所有者のはなし
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福西大輔「清正公信仰の研究 : 近世・近代の「人を神に祀る習俗」(reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298…)に、乃木希典が明治11年に「西南戦争で勝てたのは熊本城こさえたせいしょこさんのおかげ!」と加藤神社社前で祭文を奏上した、という話の続きに→
2016-01-09 00:27:01![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
>明治 42年(1909)の清正公 300 年祭である3月10日には、同じく熊本の加藤神社に同田貫作の太刀一振りと薙刀一本が献納した。 とあるんだけど、これをどう解釈するべきか迷っている。 乃木が同田貫の薙刀と太刀を(おそらくはどこからか調達して)おさめたということなのかしら…
2016-01-09 00:28:41![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
その後にまだ乃木の話が続いてるから、「乃木が」やったこととして解釈してもいいような気はするんだけど、正直なところ _人人人人人人人_ > 突然の乃木 <  ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄ というかですね←いろいろと葛藤がある
2016-01-09 00:30:29