講演「日本俘虜所収容所におけるユダヤ人の宗教的取り組み:1904−1905年」(ベル・コトレルマン)

まとめました。
歴史 捕虜 松山 ユダヤ人 ロシア兵 香川県善光寺 ユダヤ教 トルンペルドール 神戸ユダヤ文化研究会 高石市 日露戦争
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直立演人 @royterek
【ご案内】神戸・ユダヤ文化研究会・文化講座 3月6日(日) :14:30-17:00 神戸サンセンタープラザ 「日本俘虜所収容所におけるユダヤ人の宗教的取り組み:1904−1905年」 ベル・コトレルマン(バル・イラン大学准教授) jjsk.jp/event/2016/02/…
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(講演要旨)「 1904年から1905年にかけての日露戦争時、1700人を超えるユダヤ系のロシア兵が日本の俘虜収容所に収容されることになった。その際、収容所の管 理側が彼らを他の戦争俘虜と隔離したために、数々のユダヤ人コミュニティが一様な仕方で組織されるということが起こった。」
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「平等主義的な原則によって取り扱われることで、ユダヤ人俘虜はロシア軍の中にいるよりも宗教的な自由を享受することになったのである。宗教的な祝祭や神学的な討論までもが可能であったこの逆説的な状況は、彼らの民族的な意識を育むことにもなり、またロシアに対する批判的態度にも繋がっていった」
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大阪府泉大津市にあるロシア兵墓地:city.izumiotsu.lg.jp/kakuka/sogosei… 「明治37年~38年、多くのロシア兵が日露戦争で捕虜となって日本各地に収容され、高石の海岸につくられた収容所にも、多いときには2万人もの捕虜が収容されていました」
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「地区の住民が異国の地で寂しく死んでいった兵士のために、自分たちの墓地のうち約600平方メートルを提供して造り、現在も春日町墓地の中に89基の墓石が並んでいます」
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大阪府泉大津市のロシア兵墓地にあるヘブライ語の記念碑。「追悼――日本で捕虜となった軍関係者より」とヘブライ語で記されている。 pic.twitter.com/c6iCkjkEtn
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「1905年(明治38年)日本の政府は79、454人のロシア兵捕虜を29ヶ所のロシア兵俘虜収容所を設置した。その中でも現在の高石市高師浜にあった浜寺俘虜収容所は面積13万坪(43万平方メートル)の敷地に最大2万8000人のロシア兵捕虜を収容した最大の捕虜収容所であった」
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「当時、高石村の人口は3500人…浜寺俘虜収容所は四国の松山とは違い、少数の士官を除きほとんどが兵卒で文盲率が高かったようである。彼らの間で喧嘩が絶えず、分離して収容した。松山俘虜収容所は道後温泉があったので、負傷兵、将校も多かった」geocities.jp/general_sasaki…
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通訳のために講演原稿に目を通しているが、かなり面白い。日本で捕虜となった多くのユダヤ人の意識では、死を象徴する隷属状態にあったエジプトは激戦地であった旅順口であり、捕虜収容所は生を象徴するエクソダスの始まりだった。これだけ多くのユダヤ人が日本で過ぎ越し祭を祝ったのも初めてだろう。
直立演人 @royterek
しかし、100年以上も前に、日本の捕虜収容所では、ユダヤ系ロシア兵の間で、ロシア語と並んで、イディッシュ語も話されていたと思うと、なかなか感慨深いものがありますね。
直立演人 @royterek
それどころか、1905年6月には、イディッシュ語とロシア語の二言語使用による両言語のバイリンガル向けの週刊誌”Der Yudesher Lebn / Evreiskaia zhizn’”が日本の捕虜収容所内で刊行された。これは、日本における最初のユダヤ人向けの定期刊行物となった。
直立演人 @royterek
「古のユダヤ人と今日のユダヤ人の違いはなにか? 彼らは自分たちの土地と国家のために闘い、それは、彼らが死んで2000年経った今でさえ涙とともに思い出されてる。だが、今日のユダヤ人は旅順のために闘っている」
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「彼らの記憶は同宗者の心にさえ残らない。嘆いてくれるエレミヤはいない。彼らに捧げられる神殿破壊記念日もない。彼らの時宜を得ぬ墓上では、どんな追悼の言葉も述べられない。その不幸な孤児たちの涙も流されない。彼らはユダヤの土地や民のために闘ったのではないのだから」(当時のユダヤ系新聞)
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「中国の荒野で、彼らの敵であるウクライナ人やコサックの大群の間で、聖なるロシアの「名誉」のために散った何千という哀れな犠牲者の屍は朽ち果てるだろう」(イディッシュ語誌『アメリカのヘブライ人』1904年11月25日)
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「過ぎ越しの祭は、私たちにとって「喜びの時」である。様々な町から、種なしパン、卵、葡萄酒、それにハロセト(砕いたナッツ、りんご、ワイン、香辛料から成る料理)さえも送り届けられた。私たちは日本人と一緒に詰め込まれたシナゴーグで最良の料理とともにセデル(過ぎ越し祭の儀式)を 祝った」
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「祝祭のあいだ中、彼ら(日本人たち)は、大いなる畏敬の念とともに着席していた。私たちは出エジプトと過ぎ越しの物語を熱烈に語り、「一匹の子 山羊」と「我が神は一人」の合唱でしめくくった」(上海のユダヤ系英字新聞『イスラエルの使者』1905年9月8日:香川県善光寺の捕虜収容所の様子)
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「一匹の子やぎ」(Khad gadiya:過ぎ越し祭の儀式(セデル)で締めくくりに歌われる歌): 父が二束三文で買ってくれた、一匹の子やぎ けれども、猫がやってきて、その子やぎを食べてしまった 父が二束三文で買ってくれた、一匹の子やぎを すると、誉むべきかな、聖なる御方が現れて、
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子やぎを食べた猫を かみ殺した犬を 打ち殺した杖を 燃やした炎を 消した水を 飲み干した雄牛を 屠った者を 殺した死の天使を 打ち殺した。 父がかつて二束三文で買ってくれた たった一匹の子やぎ
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(つづき)「何人かの日本人が、私たちの食卓へ給仕することを自発的に申し出てくれた。もちろん私たちは断り、自分たちで給仕し合った。この光景から、私たちがもはや捕囚の身にあるとは感じていないとあなた方は理解されるかもしれない」
直立演人 @royterek
「だが、私たちは喜ぶことはできなかった。私たちの何千という同胞たちが、自分たちの大義のためでもなく、戦場で奴隷のように働き、血を流していることを知っていたのだから。神よ憐れみたまえ! 戦争が直ちに終わりますように!」
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「テルアビブの古文書館で発見された1905年4月11日付(過ぎ越し祭の一週間前)の手紙の中で、(大阪府高石市のロシア兵捕虜収容所に収容された)13人のユダヤ人捕虜は、「ユダヤ人のチャペル」を組織するイニシアチヴをとったことについて、ニナグチという名前の日本人行政官に謝意を表した」
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「祭りの直前に、トルンペルドールが、日本の当局にパンの代わりに種なしパンを準備するための小麦を分配してくれるように要請していた。なぜなら、神戸から高石収容所に宛てて発送されていた種なしパンの到着が遅れていたからである」
直立演人 @royterek
ヨセフ・トルンペルドール(1880-1920):ロシア出身のユダヤ人。日露戦争に従軍して片腕を失った後、日本の捕虜収容所に収容。戦後パレスチナに移住し、自衛組織の結成に尽力。アラブ人との戦闘の最中死亡し、シオニズム運動の英雄となる。曰く:「国土のために死ぬことほどよいことはない」
直立演人 @royterek
「あなた方を苦しめる敵の手中にあってさえ、すべては主の御心次第であり、主は捕らえ手に善良で慈悲深い心をお与えになることもできることを心に留め、知っておくがよい」(ホフェツ・ハイム『マハネ・イスラエル』)
直立演人 @royterek
コトレルマンさんの講演は知らないことばかりで目から鱗の連続だったが、歴史的背景に関する徳永先生の補足概説も面白かった。日露戦争で国際舞台に登場したばかりの日本の捕虜の扱いは極めて丁重で、捕虜の財産の保護はもちろん、捕虜となった軍人はサーベルを身につけたままエスコートされたという。
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