いわゆる「邪馬台国」について(その6)
だから器から出して自分のクニの器に詰め替えるとか非効率なことはしないと思う。縄文以前からの通商ルートを物と人が行き来してたから、交換して入手した土器に詰まったものは土器ごと移動していくわけで、参列が隣のクニからだけだとしても土器は全国さまざまの可能性はある。 #知恵泉見てる
2017-07-04 22:25:13全国の土器が出土。過疎地にある日突然出現。(纒向遺跡)←つまり、南海・東海が連動した津波被害の被災者が内陸に避難したところに全国から物資が土器に詰められて被災者に送られたのだ。農業生産の後背地のない政治首都はありえない。 #知恵泉見てる
2017-07-04 22:41:48石野博信によれば、「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」であるが、被災者が津波の痕が回復したところから順繰りに故郷に還って過疎地に戻ったのだ。本当に政治都市なら鎌倉幕府→鎌倉府、江戸→東京のように連続する。 #知恵泉見てる
2017-07-04 22:50:49またちょっと熱が振り返してきたけど、末盧国に対馬暖流に逆らってまで上陸している不自然さをロジカルに説明できる仮説になっていると思う。→いわゆる「邪馬台国」について(その5) - Togetter togetter.com/li/867550 @togetter_jpから
2018-07-25 20:03:25@togetter_jp 彬光の神湊上陸説は北部九州が同じ政権下になければ成立しないと思う。彬光に限らず北部九州から近畿まで押し並べて同じ政権下(邪馬台国)という認識自体を疑う必要がある。
2018-07-25 20:10:34@togetter_jp 博多湾岸は金印が象徴するように「パックス後漢帝国」だ。それに対し卑弥呼が代表権者を務めるのは魏から新たに金印を賜った「パックス魏帝国」なわけで、前者が新興の後者に良い感情を抱くはずもなく、敵対あるいは非協力だったと推定せざるを得ない。海流に逆らってまで末盧国に上陸した理由だ。
2018-07-25 20:20:34@togetter_jp 吉野ヶ里遺跡発見以前に伊都国を末盧国の東南にプロットした清張や、銅鏡など重量のある荷を運んでいた使節が採る航路は松浦半島では不自然で、神湊での上陸を示唆した彬光の功績は再評価されるべきだと私は思っている。
2018-07-25 20:30:54@togetter_jp 松浦半島(末盧国)から東南500里(短里)にある吉野ヶ里遺跡こそ、伊都国である。北と南に郭があるのは北が新興の倭国連合(30国)の首都、南が本来の伊都国の首都と考えると腑に落ちる。邪馬台国(女王之都所)は文字通り卑弥呼の治める出身国(1/30)に過ぎない。
2018-07-25 20:46:00@togetter_jp 常駐する郡使は駐車場の駐(経路の途中)の意味ではなく、駐留、つまり駐日大使や駐在所のお巡りさんのように、そこが最終居留地である意味の駐だ。つまり、伊都国が最終到達目的の国に他ならない。
2018-07-25 20:49:50