いわゆる「邪馬台国」について(その6)
うーん、違うな。「ある日突然」纒向遺跡が出来たのは、南海地震と東海地震の連動で沿海地域に住んでた人々が避難してきたから。田畑や農民の痕跡が出ないのは、纒向遺跡が避難所の「仮設住宅群」だから。ゆえに消えるときも故郷に帰るからすぐに消える。 #知恵泉見てる #邪馬台国
2017-05-09 22:38:17さて、邪馬台国関連を少々補足しておこう。GSJ 地質ニュースVol.2 No7 2013( gsj.jp/data/gcn/gsj_c… )の寒川 旭「地震考古学から見た南海トラフの巨大地震」に、「古い水田に削られる砂脈aは弥生時代Ⅴ期中頃(1世紀末~2世紀前半)である.(続
2017-05-21 19:43:49承)砂脈bの最上部で噴砂が古墳時代初頭(3世紀中頃)の水田面に広がり,水田が廃絶している.」とある。徳島県の吉野川下流の黒谷川宮ノ前(くろだにがわみやのまえ)遺跡(板野町)だが、この2つの年代に南海トラフの巨大地震が起きている。一方、あえてwikipediaから引用するが、(続
2017-05-21 19:45:11承)纒向遺跡の項(ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92… )に「この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、」とあり、また「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。」ともある。(続
2017-05-21 19:46:08承)即ち前者が弥生時代Ⅴ期中頃(1世紀末~2世紀前半)の地震による避難、後者が古墳時代初頭(3世紀中頃)の地震による避難にあたるだろう。南海・東海の連動で壊滅した沿岸地域から内陸の安全な場所へ被災者が大量に流入したのが纒向遺跡の正体ではないか。(続
2017-05-21 19:46:54承)高地性集落も概ねこの2つの年代に一致しており、沿岸地域からムラごと定住したのだろう。そしてムラを再建できないくらい被災した人々が向かった先が纒向と考えれば仮説として筋は通る。前述の纒向遺跡の項からさらに引くと「日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、(続
2017-05-21 19:47:49承)中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(続
2017-05-21 19:48:32承)(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている。」とある。(続
2017-05-21 19:48:59承)伊勢国、尾張国で造られた物が多いのは被災者が持参したり、交流や関連の深いムラからの支援が届いていたのだろうし、「ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器」は、着の身着のままで避難してきた人々が各々の故郷の技術で現地(纒向)で製作したからであろう。(続
2017-05-21 19:49:36承)「祭祀関連遺構」で比率が高いのも故郷の神々への信仰の反映で、きわめて広範囲からの外来系の土器・遺物の流入は未曾有の大災害に対する各地の人々の率直な支援の気持ちの現われと見るのが妥当であろう。災害に対する基本的な対処に古代も現代も大きな差異が生じるとは考え難い。(続
2017-05-21 19:51:42承)また、同項の記載に「2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀前半に建造されたと考えられる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられ、卑弥呼が年数会の祭祀に用いた建物の可能性が出ている。」とあるが、(続
2017-05-21 19:52:10承)この「建物を何度も建てたり取り壊したり」は、祭祀というより被災者の流入と転出に伴う仮設住宅の建て替えと考えれば腑に落ちる。定住ではなく故郷の復興や一族の伝手を頼って別のムラに移住する活動が活発に行われていたと考えるとスッキリするように思うのだ。(続
2017-05-21 19:52:37承)よって政治都市と位置付けることで邪馬台国や卑弥呼と直結することは早計だと、私は考えている。箸墓が「大市墓」(宮内省)と呼称されていたり「大市」と墨書された土器が出土しているので、「市」と「邪馬壹国」の「壹」の関連は考慮に入れているが、卑弥呼の出身・本貫の国であったとしても(続
2017-05-21 20:03:30承)倭国(九州)の首都圏へ招聘されて本国を離れ、吉野ヶ里遺跡の伊都国の北内郭に「住」していた(時々参勤交代のように戻っていた可能性は高い)というのが今現在の私の仮説である。
2017-05-21 20:03:41「真実」が分かるのが一番じゃないか? 一生賭けて研究発掘してきたものが「間違っていた」ことが証明されるのは尊いことだよ。後続の研究者が間違いに陥らないだけでも、もの凄い仕事を遺したことになるんだよ。なぜ、それが分からない?! #知恵泉見てる
2017-06-27 22:34:02