南三陸町戸倉の資料修復状況報告:2016年3月

2011年7月から開始した津波被災資料(南三陸町の三浦さんよりお預かり)の修復作業について、2016年3月時点での進捗をご報告致します。 思い起こせば、事績調査のために青森の八甲田山麓へ行き、修復依頼のために京都と関東と現地の南三陸町を何度か往復した5年間でした。
19
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

三浦十吉の略年譜 明治13年6月  本吉郡戸倉村に生まれる 明治26年3月  戸倉尋常小学校を卒業(12歳) 明治27年3月  同校補習科修了(13歳) 明治29年6月  南三陸大津波(16歳) 明治34年10月  大演習に参加か?(21歳) 明治35年1月  八甲田山で遭難

2016-03-12 21:59:21
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

「十吉」=「重吉」が判明した事で、彼が相当の勉強家で、もし遭難事故が無ければ、彼は地域の教養人として生きたのではないかと思わせる。例えば、和算書や漢籍の要点をメモした資料類が沢山残されていた。これは関流の和算書(初歩の初歩) pic.twitter.com/7eYxm6Be2h

2016-03-12 22:12:52
拡大
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

そして、漢籍(詩経)とそのメモ。読書欲・勉学意欲にあふれる青年だったイメージ。漢籍に「三重」の丸印があるが、これは三浦重吉の印。このメモの裏表紙に重吉の署名と共に明治31年とあることから、筆写はこの頃だと思われる。重吉、18歳。 pic.twitter.com/01xPuG0TLn

2016-03-12 22:23:25
拡大
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

さて、十吉が第五連隊に配属されてからの資料も残されている。陸軍教導団が編纂した一連のポケット版マニュアルと言うべきテクスト類。恐らく、遭難事件の後に兵舎から遺品が一括して実家に返送されたのであろう。 pic.twitter.com/dub4bHwsKA

2016-03-12 23:43:21
拡大
拡大
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

これは「射撃手簿」。中には、重吉の教練射撃の成績も記されていた。 pic.twitter.com/AZk6w66qxK

2016-03-12 23:47:09
拡大
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

これらの情報をまとめていく事で、雑然と束になっていただけの書簡類・葉書類も、宛先や時期ごとに区分できる様になっていった。そんな幾つかの封筒を眺めている内に、重吉の上等兵候補時期の答案草稿も出てきた。(これも遭難後に戻ってきた物か) pic.twitter.com/5uQG247dW6

2016-03-13 00:00:07
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

八甲田山での遭難後、重吉の遺体は田代付近で発見される。実家には近隣から香典が集まり、そのリストが2月6日に作られている。(写真はその表裏) pic.twitter.com/8o8sPpuq39

2016-03-13 00:15:22
拡大
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

重吉の戒名は「雪審院軍功義勇居士」。香典リストの人名を見るだけでも、110年前当時の戸倉村のコミュニティーの実態がうかがえそうな内容である。 pic.twitter.com/zf5b0gFjZM

2016-03-13 00:20:15
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

遭難事件の後、一段落した頃合に第五連隊経由で全国から集まった弔慰金・義援金の配分決定通知が届いた。その封書の裏書き pic.twitter.com/s3Uo9bTmIO

2016-03-13 09:16:53
拡大

重吉の遺稿

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

三浦重吉の遺した史料の中に、一枚の挨拶原稿もあった。他の書簡の束に紛れていて分かり辛かったが、内容から察するに、第五連隊入営直前に地元で開かれた壮行会での挨拶のようである。戸倉尋常小学校の原稿用紙にメモとして記されていた。その本文を紹介すると、

2016-03-13 09:22:04
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

(片仮名を平仮名にして、句読点も打って紹介)「扨て、先には青年諸君の御厚志に預り、又以て今晩は先輩諸賢の御招待を蒙りますて、皆さんの御参集の前に、幸にも御遇ひ申すことを得たのは、実に此上もなきことで御座りまするが、」→ pic.twitter.com/yHIfoDsiiH

2016-03-13 09:35:34
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→「唯、はずかしながら不才な私で御座りますれば、申上たい御礼も意丈も今更言え尽しことが出来なえので御座ります。只、以後は軍務に憤発すて、日本男児の鬼を連磨致さん覚悟で御座ります。」→

2016-03-13 09:36:44
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→「尚、終に臨んで、家には弱身なもの、又、幼なへものばかり残りて居りますれば、何卒此上とも皆さんの御引立を蒙りたいことを偏に希へます。」/仙台弁特有の仮名表記もあり、それだけに、この挨拶の口調までありありと思い浮かべられるようである。 最後の一文の家族への思いが、余りにも切ない

2016-03-13 09:41:39
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

八甲田山遭難事件については新田次郎による小説化『八甲田山 死の彷徨』とその映画化が強烈なインパクトを世間に与え、そのイメージが今も残っている。ただ、その当時の時代背景を日露開戦直前とだけ捉えるのも一面的だろう、と思うようになったのは、三浦重吉の遺品と出会ってから。

2016-03-13 10:01:13
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

三浦重吉の略年譜を見ると分かるが、彼をはじめとする三陸沿岸出身兵卒は10代後半に三陸大津波を体験。大津波を生き延びたのに、その5年後の遭難事件。沿岸部の復興も一段落した時期だっただろうか。(本吉郡出身者10名/気仙郡11名) cf. h7.dion.ne.jp/~wakana-s/whit…

2016-03-13 10:13:40
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

こういうことを考えてみると、新田の小説とはまた違った視点から、つまり東北出身の一兵卒から見た八甲田山遭難事件の描き方が出来るかもしれない。もちろん、遭難事件そのものと言うよりも、20歳そこそこの若さで事件に遭遇するまでの東北の田舎の実状という叙述になるだろうが。

2016-03-13 10:24:43

もう一人の戦没者

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

明治以降の三陸沿岸は、津波と戦争の絶え間ない時期であった。日清戦争→三陸大津波→八甲田山遭難事件→日露戦争→第一次大戦→昭和三陸大津波→太平洋戦争→チリ地震津波→(平成)東日本大震災、と。この三浦さんのお宅には、もうお一人、戦没された方がいた。その方の遺品も今回、レスキューした。

2016-03-13 10:42:33
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

三浦重吉から見て、甥御さんにあたる三浦勲。彼が太平洋戦争中に、木更津の航空基地から実家の幼い甥と姪に宛てた軍事郵便が、書簡の束から出てきた。幸い、さほど津波の影響はなく、そのままで判読できた。広げると当時の戦況世界地図が。 pic.twitter.com/6Ic6Hmc2Km

2016-03-13 10:46:45
拡大
拡大
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

軍事郵便の全文は紹介しないが、最後は「しっかり勉強するんだよ」で結ばれていた。 三浦勲は、1945年の硫黄島で玉砕。 公報でその通知が届いたのが昭和22年の事で、それを受けて葬儀が出されたのであろう。やはり、香典帳が残っていた pic.twitter.com/1dA5cleMVW

2016-03-13 10:59:09
拡大

東日本大震災の後に

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

戦時中に幼児であった甥御さんは、戦後、志津川町内でご活躍。お孫さんが独立するまで見届けられたが、非常に残念ながら、2011年の津波でお亡くなりになってしまった。 津波をあびた資料をお預かりに、最初に戸倉の三浦さん宅にお邪魔した時は、まだお屋敷内の後片付けをされている最中であった

2016-03-13 11:19:22
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

ご自宅が解体される事が決まり、後片付けに忙殺される最中にお会い頂くだけでも恐縮なのに、帰り際、納屋の床に干してあったタマネギまで御土産に頂いてしまった。 「これ、亡くなったジジババが最後に、畑に植えた物なんです。食べてください」と pic.twitter.com/dDLuKWmcD5

2016-03-13 11:27:02
拡大