南三陸町戸倉の資料修復状況報告:2016年3月

2011年7月から開始した津波被災資料(南三陸町の三浦さんよりお預かり)の修復作業について、2016年3月時点での進捗をご報告致します。 思い起こせば、事績調査のために青森の八甲田山麓へ行き、修復依頼のために京都と関東と現地の南三陸町を何度か往復した5年間でした。
支援 震災
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はじめに
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
東日本大震災から5年目を迎えた今、現在も進めている津波被災資料修復(南三陸町の三浦さんよりお預かり)の進捗、新しく判明した事などを、以下連投にてお知らせ致します。 震災直後からの修復活動につきましては、多くの皆様からのご支援・ご寄付を賜りました。ご報告と共に厚く御礼申し上げます
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
経緯は下記を参照 「南三陸町戸倉の資料の修復記 」togetter.com/li/859552 「津波被災史料の修復について(中間報告) 」 togetter.com/li/801609 「八甲田山雪中行軍遭難資料館訪問記 」 togetter.com/li/874305
まとめ 南三陸町戸倉の資料の修復記 2011年9月から4年ほどかかりましたが、お預かりしていた南三陸町戸倉で津波を浴びた資料の修復が終わりました。この作業経緯と、資料の一つをお返しするまでの概要をまとめました。 2501 pv 51 2 users 3
まとめ 津波被災史料の修復について(中間報告) 南三陸町で東日本大震災の津波を浴びた個人宅の史料をお預かりし、修復を進めていますが、このまとめはその中間報告のつもりで作りました。 3442 pv 86 1 user
まとめ 八甲田山雪中行軍遭難資料館訪問記 2015年9月15日午後、青森市の幸畑地区にある資料館と八甲田連峰山中にある記念銅像に行ってきました。 6566 pv 88 1 user 1
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
お預かりした資料は段ボールで数箱分。内容は非常に多岐にわたり、(1)神仏、葬礼関係史料、(2)近世古文書、(3)和算書、(4)明治・大正期教科書、(5)漁協資料、(6)葉書、書簡、(7)八甲田山遭難事件関係資料、(8)家族、家計資料、(9)その他、という分類に収まりそうである。
祭礼・宗教関係資料
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
まず、こちらの一枚刷りから。「天理神尊像」というらしいが、「内務省免許」の印があるので戦前期の物。お預かりした当初はボロボロの断片で全体像が分からなかったが、修復してもらったところ、こんな絵姿になった。残念ながら発行元不明。 pic.twitter.com/fPeN4hMqa9
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
次の一枚刷りは、「仙台開創三百年祭紀念大祭典山鉾之図」(作画印刷・宇角新之助/明治32年印刷)。この山鉾を仕立てた仙台祭の開催は、この仙台開府300年を節目とした明治32年が最後となる。旧藩時代の町単位で山鉾が造られた。 pic.twitter.com/6zS7xRtpSY
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
山鉾の幾つかを拡大して紹介。「大町四丁目 伊達政宗公ヨリ片倉小十郎 白石城ヲ賜ル躰」/「肴町 章魚ト鯉ノ瀧登リノ躰」/「常盤町 東一番町 風流踊屋臺」(参考文献:政岡伸洋『仙台の祭りを考えるための視点と方法』、仙台・江戸学叢書4) pic.twitter.com/40q4iL6Btp
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
どういう由来か分からないが、ポケット版の新約聖書(年代不明)も出てきた。 pic.twitter.com/3YUSepZVRu
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
あとは、石巻の梅渓寺(牧山の上にあるあのお寺)で出した経文(年代不明) pic.twitter.com/vxRIy3Ho86
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明治34年の宮城県下陸軍大演習記念地図
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
次は、明治34年に宮城県下で行われた陸軍の特別大演習の関係地を描いた「特別大演習紀念地図」(文園堂、明治34年)。名取郡以北、磐井郡付近まで描かれている。一般向け販売地図としては稀覯地図ではないかと思う。 pic.twitter.com/AK8BJeRtpR
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
紙面右上にある仙台市と一ノ関町の市街図部分。 pic.twitter.com/XNU9RgMFUP
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
破損、かすれのひどかった部分の拡大。宮城郡、松島湾付近になる。この地図もまた、元々破損していたところに津波を被ったものだから、相当痛みが激しく、当初は地図の表面、それも一部分しか確認できなかった。ところが、修復を進める内に → pic.twitter.com/dsCX9svLcs
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
裏面にも印刷のある事が判明。(文字が判別できる様に修復方針を変更。)そこには大演習に参加した将校、下士官の一覧が両軍に分かれて番付形式で記載があった。なお、中央に「統監部 審判官長」として記されているのは「元帥 陸軍大将 大山巌」 pic.twitter.com/7jxTXVIO8W
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地図の由来と八甲田山遭難事件
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
そして、この地図の出された明治34年10月で思い出した事。演習のわずか2ヶ月後の明治35年1月に、あの八甲田山の遭難事件が起きる。その視点で番付を眺めると、確かに第五連隊もこの演習に参加していた。参加者の一例として水野忠宜の箇所。 pic.twitter.com/GmqUBbbh1N
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
これに気付いた事で、なぜ大演習地図を三浦家が所蔵していたのかも予想が付いた。後に紹介する三浦十吉(重吉とも)もまた、この第五連隊に属していて演習に参加していたのであろう。その様子を見聞するための情報源、あるいは記念として、三浦家では地図を購入したのであろう。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
八甲田山遭難事件については、既に多くの先人が検証を進め、紹介されている。とはいえ、200名近い犠牲者を出した事故でありながら、殆どの兵卒は東北の田舎出身、個人的な記録や資料すら残らない地位と年齢の若者たちであった。その中にあって、三浦重吉の資料は津波を被りながらも奇跡的に残った。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
お預かりした資料の山を見ていると、「重吉」さんと「十吉」さんの2名が一族にいたのかと思う様な記載があちこちにあり、しばらく混乱していたが、2枚の卒業証書・学習証書が出てきた事で、同一人物であった事が判明。共に明治13年6月生の記載。 pic.twitter.com/xXEopB1q4L
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
戸倉尋常小学校の設立が明治24年(水戸辺と折立の2つの小学校の合併により誕生)だから、三浦十吉はその草創期の卒業生。南三陸町の歴史資料としても貴重な証書だろうと思う。これらもお預かりした時は、他の書類とゴチャゴチャになって津波をあびていて、修復後にこの文面を確認した。
三浦重吉とその生涯
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コメント

micky__s @micky__s 2016年3月13日
過去どれほどの郷土資料が災害により失われてきたか、ということに思いを馳せるところ。 こうして残ったものは、大切に記録に残したいものです。
文里 @wenly_m 2016年3月13日
これはまとめて欲しかったものです。ありがとうございました。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 2016年3月14日
このまとめを作ったときに言及し忘れましたが、旧戸倉村の震災前の雰囲気や生活は、我妻和樹監督の「波伝谷に生きる人びと」に収められています。
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