世界観とその対立、事実と「真実」のことなど

事実、真実、世界認識とその構造に関する過去のつぶやきから拾ってみた。
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事実と「真実」、そして「真実」の重み

道草クー太郎 @KutaroMichikusa

↓ 事実と真実の違いについては大枠としては青谷さんと同じ考えなのだが、このように言い切られると「真実」がとても軽いもののような印象を受ける。事実は重いが真実は軽いのか? そんなことはなかろう。事実も重いし真実だって重いはずだ。重いからこそ人々の心に波紋を広げる。

2014-05-19 00:37:29
青谷三郎 @aotanisaburo

朝もチラッといったけど「真実」なら問題ないんだよ。「これが私の真実です」と言われても「ああそうですか」で済む話。『美味しんぼ』は作者が捉えた「福島の真実」なんだから。共感できる人はその通りと思うし、できない人は違うと思うだけ。 twitter.com/yamamoto8hei/s…

2014-05-18 21:55:42
山本八平 @yamamoto8hei

ならば「福島の真実」などと謳わない事です。読者の誤解を招かない為にも「鼻血は放射能の所為」という一コマに「これはフィクションです」という注釈をキチンといれるべきです。 RT @masterlow フィクションの中で、しかも懐疑的に語られている説を真に受けて怒るほうがどうかしている

2014-05-18 21:33:29
青谷三郎 @aotanisaburo

繰り返すけど「真実は人の数だけあって、そのどれもが正しい」。それに共感できるかどうかも人それぞれの自由。マンガにしろその他の創作にしろそれは作者の「真実」を表したものだ。それに共感するも反発するも受け手の自由。創作は学術論文などのような「事実」を述べるものじゃない。

2014-05-18 22:09:03
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

人が「真実」を語る時、それは自分以外の誰かにそれを伝えたくて語るはずだ(出版なら明らかにそうだ)。だとすれば、単なる「私だけの真実」であろうはずがなく、他者との共有可能性(客観性)を追求した営為の帰結でなければいけない。

2014-05-19 00:38:04
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

「私の(見た)真実」を求めつつも「あなたにとっての真実」でもあろうとする営為が無ければ「真実」は幾らでも粗製乱造できる。ちっとも「重い」ものにはならない。そのようなお手軽さで得たものを「はい、これが真実です」と世に提示したところで人々を納得させることは難しいだろう。

2014-05-19 00:39:10
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

元々日常生活の中で珍しくもない鼻血が注目され強調されたのは、それが白血病と並んでよく知られた被曝の身体影響の一つだったからだと考えるのが自然だ。「美味しんぼ」に登場する人物の諸発言に特徴的なのは、定量的な問題把握の姿勢が見られないこと。

2014-05-19 09:02:18
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

鼻血を被曝と結びつけた最大の理由もそこにあったと思う。だから、「鼻血が出るほどの高線量被曝はしていないのだから、鼻血は被曝とは無関係」という反論は的外れというわけではないだろう。定量性を欠く定性的理解の一人歩きに対する批判として真っ先に思い至る論点だ。

2014-05-19 09:02:40
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

これに対し「誰も高線量被曝による鼻血とは言っていない」「低線量被曝による身体影響は解明し尽くされていない」という対抗的議論は、定量的把握の欠如問題をウヤムヤにするためのテクニカルな「かわし技」との印象が拭えない。

2014-05-19 09:03:20

上記ツイートへの補足(2018年12月)。これを書いた時はあまり意識していなかったが、原発事故を「科学や医学が初めて直面する未経験世界」という側面から見るならば、市民が知覚する諸々の「違和感」を頭から心理的バイアスと断じることなく「既存有力説ではカバーできない新しい現象の知覚である可能性」にも留意し、「不安を煽る」という理由で鎮圧してはならない点を強調しておく。ちなみに、これまでの甲状腺検診の結果は、過剰診断要素、被曝要素をどう評価するかとは別に、事前に想定されていなかった生命現象に医学が接触している可能性を覗わせている。

道草クー太郎 @KutaroMichikusa

人それぞれに存在する「真実」が「私の真実」から「福島の真実」や「社会の真実」に昇格するためには、予め予想される批判や論点に対して何らかの明確な解が用意されていなければならない。それは自分だけの視点に他者の視点を加えることを求める。

2014-05-19 09:17:05
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

そういう複眼的な営為を持ってたどり着けるのが言葉の本来の意味での「真実」であり、だからこそ真実は重い(それでも尚、究極的には真実は複数存在し得る)。これは個に存する言論・表現の自由がなぜ社会的にも必要不可欠であるかという問題にも関わることだと思う。

2014-05-19 09:19:24
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

言論・表現の自由は、他者の言論・表現にも自らのそれと等しく価値を認めることを必要とする。言論・表現に超社会的で先験的な価値が内属しているからだとは思わない。

2014-05-19 09:31:14
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

他者視点を自らの視点に繰り込めない言論・表現が大手を振って「真実」を量産するようになれば、人々の語る真実はますます「社会の真実」からは遠いものになり、人々にとってよそよそしい「無価値な物語」に成り果てるだろう。

2014-05-19 09:31:41
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

「自分だけの視点に他者の視点を加える」とは、あれも正しいがこれも正しいかも、という相対主義とは違う。他者に対し「正しいと思う自説」を真剣に訴えようとすればするほど「他者にはどう見えるか」は切り捨てられない問題だ。それをきちんと考えることで自説も磨かれる。

2014-05-19 10:08:20
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

個人の真実探求といえども、それが真剣であればあるほど「社会的な共同認識作業」という側面が大きくなる。言論・表現の自由に価値があるのも、それが「社会的な共同認識作業」の一環を為すことと不可分だ。人間は社会的存在であることからは逃れられない。

2014-05-19 10:08:48

先験的な「全体」像とその反省

道草クー太郎 @KutaroMichikusa

↓ 師匠の「内ゲバ」論は左翼の内ゲバを論じたものだが、そこには「思想のかたち」として抽出される(左翼か否かに関係のない)普遍的な問題がある。3.11以後の諸々の「争い」の構図を理解する上で参考になると思う。

2014-08-02 08:41:28
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

(再掲)師匠の「内ゲバ」論から抜粋(1) pic.twitter.com/S5OTqOjMdP

2014-08-02 07:06:11
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

先鋭化した政治的対立の意識が落ち込む「革命か、でなければ反革命」という二極裁断は、3.11以後の「被害者側か、でなければ御用」の裁断にも通じる。そこには、個別的な「事実」の面でいくら「誤り」を指摘されたところで容易に崩れない先験的な「全体」像がある。

2014-08-02 08:41:55
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

この「論争」は事実認識をめぐる純粋な学術次元の判断部分と、「強烈なイデオロギー性」に主導される政治的な裁断部分が混在しているところに独特の難しさがある。その「難しさ」の最たるものが後者によって前者が排撃されることだ。とても始末が悪い。

2014-08-02 08:43:21
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

個別の事実によって反省されない先験的な「全体」像はどう克服されるべきか。これは当人内部における「思想のかたち」の問題であるから、当人が自省するより手はない。

2014-08-02 08:59:14
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

その「自省」は諸々の事実を「多面的に解釈する」という常識的な話ではなく、「解釈の仕方」に反省が及ぶ必要があるということだ。「解釈の仕方」とは、対象とされる事実認識の手前にある「自己の在り方」への反省だ。自己の在り方は自分が置かれた社会の時代状況認識と繋がっている。

2014-08-02 09:01:49