【ツイノベ】代わりにキスしてくれればいい【完結】
- Aoh_Sasaki
- 991
- 3
- 0
- 0
25)目測にして、四十の半ば。長い巻き毛は白髪だらけで、顔立ちは整っているが、痩せこけて血色も悪く、今にも死にそうな表情が痛々しい。よしんば病を患ったとしても、三十に届く程度のエルチェがあそこまで老け込むとは思えない。きっと素面のときに見れば、似ているとは思わないはずだ。
2016-04-07 01:18:5026)男の髪は遠目には薄紅に見える。元は赤毛らしい。もしエルチェが老いたら、あんな頭になるのだろうか。どんな刺繍糸よりも滑らそうな長い髪は、艶やかな薔薇色で、とても綺麗にカールしていた。彼の髪ならば手触りが悪くても、色が汚くても、どうせ理由をつけて好きだっただろうが……。
2016-04-07 01:19:0027)馬鹿馬鹿しい、そう呟いた瞬間に、男と目が合った気がした。新緑を思わせる、大好きだった瞳とよく似ている。しかし髪も顔色も色褪せているくせに、男の双眸は記憶にあるエルチェのそれより温かく、もっと鮮やかに見えた。冷静にこちらを観察する、温度のない眼差しとはまるで違う。
2016-04-07 01:19:1128)もうやめよう、そろそろ考えるだけ不毛だ。キトリーはカーテンを閉めて、気付けにもう一杯酒を煽ってから立ち上がった。弟子に番を言いつけて、自分は寝室で昼寝をすることにする。酒で忘れられないなら、意識を落としてどろどろに眠ってしまえばいい。
2016-04-07 01:19:2229)いつまで逃げるのだろう、とふと思うことがある。ここ最近はとくに考え事が増えた。世間的には良い傾向なのかもしれないが、心の傷に麻酔を垂らし、縫い合わせることもできずに生きているキトリーには、まだ全てと向き合う自信がない。盲目でいるのはそんなに悪いことなのだろうか。
2016-04-07 01:19:3230)羽毛布団にくるまって目を瞑る。このまま何も見えなくなってもいいのに。音も聞こえなくなればいいのに。眠りではなく、思考の汚泥に沈みかける。 そんなときに、バタバタと慌ただしい音が響いた。田舎の農家から押しかけてきた、少々そそっかしい弟子が近付いてくるのがわかる。
2016-04-07 01:19:4831)間もなく寝室のドアをノックもせずに開いた弟子に、キトリーはまず拳骨を落としてやろうと考えたが、考え直して先に用件を尋ねることにした。 「どうしたの? 午後は来客の予定はないわよ?」 乱れた髪をささっと手櫛で整えつつ見据えれば、弟子は困ったように後ろを見遣る。
2016-04-07 01:20:0132)「あの、師匠に会いたいって人が……なんというか……」 「なんというか?」 「……その、ちょっと干からびた感じの男の人なんですけど……」 小声でそう言う彼女を軽く小突き、その背後を見ると、先ほど眺めていた男が玄関先に立っているのが見えた。
2016-04-07 01:20:1633) 改めて彼を見て、息が止まりそうだった。キトリーを見つめる男は、泣きそうな顔をしている。外にいたときの死相まがいのそれともまた違う、とても苦しそうな表情だ。 キトリーは尻込みする己を叱咤して、玄関に向かった。近寄れば近寄るほど、酒を言い訳にできないほど彼に似ている。
2016-04-07 01:20:2734)あと数歩、というところで男が動いた。何が何だかわからないまま、いつの間にか苦しいほどに抱きしめられていた。よれよれのシャツ越しに、人間の胸板の温かさを感じる。突然のことに、思わず目を見開いて固まった。 「キトリー」 囁かれたそれが、自分の名だと気付くまでに十秒ほどかかる。
2016-04-07 01:20:3735)恐る恐る顔を上げると、暖かい雨が降ってきた。大粒が次々とこぼれるのが見えたと思えば、涙でぐちゃぐちゃの顔をすりすりと寄せられて、肌触りの悪い彼の髪が、濡れてキトリーの顔にもまとわりついてくる。普通なら不快なはずなのに、その初めての感触はとても心地よかった。
2016-04-07 01:20:4736)何度も名前を呼ばれるので、その度に小さな声で「うん」と答え続けた。キトリーが恋をしたのは、彼が美しかったからではない。だから彼がかさかさで、穴が開いてごわついた布くずのようになっても、悔しいことに好きだという気持ちは変わらないのだ。
2016-04-07 01:20:5637)蔑ろにされていると感じて忘れていた、たくさんの彼との幸せな思い出が蘇ってきて、いつの間にかキトリーも一緒になって泣いていた。焦げの多いパンケーキを苦笑いしながら食べてくれた顔、王子夫妻の旅行に付き添う折に渡したハンカチを振ってくれた姿……どれもこれも大切な記憶だ。
2016-04-07 01:21:0638)「すまなかった。偉そうにあれこれ言って、俺のほうが何もわかっていなかった」 エルチェはそう言いながら、自分も大泣きしているくせに、記憶にあるのと同じハンカチを取り出して、優しく目元を拭ってくれる。 彼の話を一言も聞き逃したくなくて、キトリーは頷きながら続く言葉を待った。
2016-04-07 01:21:1539)「お前はゾンダーハの民ではないから、いずれ心変わりをするのだと思っていた。だから好きにならないように、わざとおざなりに扱っていたんだ」 キトリーが大好きな声を震えさせて、エルチェは必死に言葉を紡ぐ。 「足掻いている時点でお前を愛していたのに、気付かないふりをして傷つけた」
2016-04-07 01:21:2540)そう言って歯を食いしばる姿が痛々しくて、キトリーは初めて彼の腕を回し、小さく彼の背を撫ぜた。するとエルチェの顔はよりいっそう歪み、嗚咽は言葉を為さなくなった。小さな子供のように泣き縋る彼を見て、愛おしさに胸が締め付けられる。 いいよ、とキトリーは小さく呟いた。
2016-04-07 01:21:3341)「わたしを探してくれたんでしょ?」 問えば、抱きしめる腕がぴくりと震える。 「わたしね、ずっと忘れられなかったの。たぶん、エルチェしか好きになれないわ」 きっと一生に一度の恋だ。キトリーは不器用だから、生涯に一人しか愛せない。 「だから、わたしと一緒にいてくれる?」
2016-04-07 01:21:4342)「一緒にいたい……お前とずっと一緒にいたい!」 エルチェは吐き出すように言って、表を上げた。右手をそっとキトリーの頬に添えると、そっと再び顔を寄せる。泣き笑いを浮かべた瞳には、炎が灯っていた。 「愛している」 直後に落ちてきた口づけに、キトリーはそっと目蓋を閉じた。
2016-04-07 01:22:0043)柔らかくて、熱くて、幸せだった。 何度も啄むように唇を重ねられて、すぐに夢中になった。物語に出てくる激しい口付けでもないのに、思考はすでに溶けて、全て解けてしまっている。 そっと唇を離して、泣き止んだ彼が笑った。初めて見る顔だった。色鮮やかで、とても甘い顔をしていた。
2016-04-07 01:22:5244)「キトリー、俺と結婚してくれないか」 腕の中に閉じ込められたまま、世界で一番聞きたかった言葉を聞く。 「飲んだくれの刺繍職人でよければ喜んで」 もっとも、すでに酔いは醒めているけれど。キトリーは今日、初めて笑みを浮かべた。 それを見たエルチェは嬉しそうにまた涙を零す。
2016-04-07 01:23:1045)「飲みたくなったら、代わりにキスしてくれればいい」 涙声のせいでかっこよくなりきれないけれど、いたずらっぽく言ったエルチェに、キトリーは自分からすり寄った。 「じゃあそうする」 「ありがとう。ぜひそうしてくれ」 初めに笑い声を上げたのはエルチェのほうだ。
2016-04-07 01:23:4546)二人の枯らした声は、開いたままのドアから外に漏れる。けれどそんなことはもう、どうでもいい。あとは堰を切ったように笑い合った。 ふと彼の肩越しを覗いたキトリーは、世界が違って見えることに気付いた。戻ったのではなく、変わったのだ。
2016-04-07 01:27:09