【ツイノベ】代わりにキスしてくれればいい【完結】
- Aoh_Sasaki
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『代わりにキスしてくれればいい』 5800字程度 / 復活愛・すれ違い・ハッピーエンド 飲んだくれだが腕のいい刺繍職人のキトリーと、彼女が母国もろとも捨てて逃げたのに、三年越しに追いかけてきた恋の話。
2016-04-07 01:13:5201)飲んだくれだが、仕事はできる。その刺繍職人をを知る者たちは、口々に彼女をそう評する。四六時中アルコールの匂いが消えないし、度数の高い酒を勢いよく煽る様など、お世辞にも上品とは言えない。しかし彼女、キトリーの生み出す作品は、息を呑むほど美しかった。
2016-04-07 01:14:1102)ドレスが欲しければファルギエールへ行け、とは誰が最初に言ったものか。彼女の母国は、服飾にまつわる産業が盛んだ。精緻な刺繍の施された美しい布や、希少な糸をふんだんに使ったレースなどの名産品で知られている。キトリーは母国では、王家お抱えの工房に籍を置いていた。
2016-04-07 01:14:2203)三年前に自ら職を辞すまで、王妃や王女のドレスに、王や王子の礼服に何度も刺繍を施した。指名されることも多く、職人としては一つの高みに到達したことになる。母を幼いみぎりに失い、それから家族に冷遇されて育った彼女にとって、報いのある仕事こそが人生の全てだった。
2016-04-07 01:14:3204)そんな日々に転機が訪れたのは、王子が隣国から妃を迎えたときのこと。キトリーは王子本人から指名を受け、未来の王妃の花嫁衣裳を刺繍で飾るよう命じられた。そうして彼女は嫁入り修行をしていた王女の元を訪れ、思ってもみなかった出会いを経験する。
2016-04-07 01:14:4505)王女には数名の護衛騎士が随行していた。キトリーはそのうちの一人、エルチェという美しい青年に恋をしてしまったのだ。見た目ももちろん好ましいが、彼女が彼を好きになったのは、何気なく貰ったたった一言の褒め言葉のせいだ。
2016-04-07 01:15:0006)「あなたの刺繍は、まるで空気まで縫いとっているようですね」 エルチェに他意はなかっただろうが、キトリーは心臓が止まりそうになった。それはかつて幼い彼女が初めて仕上げた刺繍を見たとき、亡き母が言ってくれた言葉だった。うっかり泣きそうなほど嬉しかった。
2016-04-07 01:15:1407)それからというもの、キトリーは王女を訪れることにかこつけて、頻繁にエルチェに会いに行った。あるときは自ら縫ったハンカチを携えて、あるときは苦戦しながら作った食事を携えて。刺繍しかなかった人生に、新しい色が加わった。
2016-04-07 01:15:2808)王女が王子妃となり、それでもエルチェが護衛騎士としてファルギエールに残ったと知ると、キトリーは勝手に彼との出会いを運命だと位置付けた。恋する人がいて、仕事も充実している。月並みな表現ながら、キトリーはとても幸せだった。
2016-04-07 01:15:4009)エルチェの母国・ゾンダーハでは第一に伴侶を、第二に主君を非常に尊ぶ。男女どちらも一度定めた相手にしか思慕を抱かない。こと夫は妻に尽くすことが至上の喜びなのだという。キトリーもその関係に憧れた。そして、そこにしか目を留めていなかった。
2016-04-07 01:15:5010)ゾンダーハの人々は、結婚するまでは愛情表現らしい愛情表現をしない。どういった理屈なのか、結婚するまでは精通も初潮も来ないらしい。婚約まではあくまで友人としての関係で冷静に相手を見定めるのだ。キトリーはそれでもいいと覚悟を決めて、エルチェに交際を申し込んだ。
2016-04-07 01:16:0311)一度断られ、それから何度も何度も玉砕し、十度目で彼が根負けしたように頷いてくれたとき、キトリーは天にも昇る心地だった。愛を囁くどころか、手も繋いでくれない恋人だったが、結婚すれば愛してもらえると思えば我慢できた。それなのに、いつから贅沢になったのだろうか。
2016-04-07 01:16:1212)伴侶のいないゾンダーハ人にとって、最も優先されるべきは主君だ。エルチェも恋人のキトリーより、母国にいたころから支えてきたヘラルダのほうが大事だとはっきり言っていた。最初は聞き分けのいい女を演じていたキトリーも、それが一年続くと不安ばかりが募るようになった。
2016-04-07 01:16:2413)何より一年経ったのに、彼から結婚を申し込まれる気配は全くない。まだお互いをきちんと知っているとは言えない、と同僚に話しているところも見てしまった。一体いつまで待てば伴侶になれるのか。キトリーはあの手この手でアピールを続けたが、空回り続けては自信を削がれていく。
2016-04-07 01:16:3514)その日、キトリーはエルチェを待っていた。二年前に入った後輩が独り立ちして落ち着いてはいたものの、エルチェが式典の警備や王子妃の付き添いで忙しく、彼女にとって待ちに待った久方の逢瀬だった。ところが何時間経っても、恋人は待ち合わせ場所に姿を見せない。
2016-04-07 01:16:4515)やがて日が落ちて仕方なく寮に帰ったキトリーは、エルチェの後輩から彼が王子妃のお忍びに付き添っていたこと、その際に襲撃に遭って軽傷を負ったことを知った。忙しさのあまり鬱屈していた王子妃が、突如言いだした外出だったらしい。押しとどめていたものが、一気に弾けた。
2016-04-07 01:16:5416)主絡もせず放っておかれたことは悲しいが、エルチェの優先順位に関してはとうに諦めてもいる。だからキトリーの怒りは、不義理な恋人ではなく王子妃に向いた。他の女の我が儘のせいで、ずっと楽しみにしていたデートは潰され、恋人は余計な怪我まで負っている。許せなかった。
2016-04-07 01:17:0517)数日後に機会は訪れる。キトリーは王子妃から頼まれていた手袋を手に、彼女の居室を訪ねた。エルチェは訓練に参加しており、その場にはいない。そうして誰に何を言われても穏やかに答えてきたキトリーは、初めていとも丁寧に、それでいて斬りつけるような言葉を選んだ。
2016-04-07 01:17:1618)王子妃は、エルチェとキトリーの約束を知らなかったらしい。元より怪我をさせたことも悔いていたようで、自分の自覚が足りなかったのだと泣いて詫びられた。傲慢に言い返されると思っていたキトリーは、彼女の行動に困惑する。気分は晴れるどころか、ますます降下した。
2016-04-07 01:17:2719)もっと最悪なことも起こった。改めて王子妃に謝罪されたエルチェが、キトリーに対して激怒したのだ。分をわきまえろ、お前に責める権利はない、などと冷たい眼差しでまくしたてられ、キトリーの心は折れた。彼は別れを口には出さなかったが、そういうことなのだろうと静かに理解した。
2016-04-07 01:17:3620)もう、全てがどうでもいい。あれほど誇らしかった仕事も、寂しいなりに幸せのあった生活も、何もかもが色を急速に失って見えた。 翌月に王宮を辞し、母国を捨てたキトリーは、あちらこちらを転々として、海沿いの小国・マウロに居を定めた。のどかな街は、余所者の彼女を温かく迎えてくれた。
2016-04-07 01:17:4821)幸い刺繍の腕のおかげで、食うに困ることはない。近ごろは遠方から訪れてくる客さえいる。弟子を一人抱えてもまだ余裕があるくらいだ。 酔っていれば生きる辛さを忘れられると知ってからは、今まで避けていた酒にも夢中になった。惨めな自覚はある。それでも、まだ素面では生きられないのだ。
2016-04-07 01:18:0622)そうして誰に向けるでもない言い訳を考えていたキトリーは、弟子が課題に取り組むのを確認して、ふと窓の外を視線を投げた。活発に動く人波に混じって、毛色の違う男が一人、その場に立ち止まって何かを探している。彼の周囲だけ、まるで切り取ったかのように空気が違う。
2016-04-07 01:18:1823)キトリーは我が目を疑い、すぐに頭を振った。深く考えると酔いが醒めそうだ。 お気に入りの蒸留酒の瓶を開けると、芳しい香りがふわりと漂う。午前に訪れた客が差し入れてくれた高級な一本で、深みのある味はもちろん、気持ち良く酔えるところが気に入っている。
2016-04-07 01:18:2924)窓から見える男は、かつて愛し、今も忘れられない人に似ていた。だがそれも、おそらくは酒に酔った頭がそう見せているだけだろう。こういうときに、自分の未練を再確認させられるようで腹立たしくなる。キトリーはもやもやした気持ちのまま、グラスに注いだ酒を一気に煽った。
2016-04-07 01:18:41