2016年4月12日

創造主・第一原因を必要とし前提とする世界観と、それを必要とせず否定し世界と法則を無始無終とする世界観、どちらが合理的か

創造主・第一原因を必要とし前提とする世界観(アブラハムの宗教など)と、それを必要とせず否定し世界と法則を無始無終とする世界観(仏教など)、どちらが合理的で、どちら一方はそうでない、と一方的に言う事は(信仰なしで)可能なのか、というまとめです。
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まとめ 原因なく存在する創造主 VS 無限に遡及(無限後退)できる輪廻転生 &原因なく存在する法(ダルマ) 因果云々は他宗教相手の折伏にはあまり使わないほうがいいと思う。 5039 pv 14 1
まとめ キリスト教を日蓮正宗の価値観で理解しようとするとこうなる、という事例 日本でのキリスト教への誤解や偏見の塊みたいなものをみたのでまとめ。 宗教の違いとかそういう以前に話が通じてない件。 2013.11.26修正 タイトルを「キリスト教を仏教の価値観で理解しようとするとこうなる、という事例」から、「キリスト教を日蓮正宗の価値観で理解しようとするとこうなる、という事例」に変更しました。 ここで多くつぶやきを投稿している方は日蓮正宗信徒であり、日本の一般的な仏教の価値観とは異なるとのご指摘を頂いたからです。 36627 pv 130 1 user 1
CMTC @MontyGlycon0

仏教において、衆生(生き物)が生まれ変わりゆく六道には、物質でできた体を得た衆生が生きる人間道と畜生道がある。そのため、輪廻する衆生が無始で存在しているとなると、転生の主体(バラモン教のアートマンではないが「霊魂」的なるもの)だけでなく物質も無始で存在している必要がある事になる。

2016-04-12 04:56:39
CMTC @MontyGlycon0

衆生どころか物質も原因なく存在していていいが、他所の宗教の創造主については「因果に反するだろ」と言う。んんん?仏教用語としての因果は実際のところ自分ルールの上で定義され使われてる「因果」って事なのだろう。

2016-04-12 05:01:28
CMTC @MontyGlycon0

阿含経の『起源経』という経典には、この世界も時期がくると消滅して、また生成される、と書いてある。世界は世界でも、あくまで滅びるのは沢山ある世界の一つ(一部)。この世界が滅ぶとここにいた世界の住人の多くは滅んでない別の世界「光音天」に一旦転生する。

2016-04-12 05:09:46
CMTC @MontyGlycon0

んでもってさらに時間が経つと、この世界は再び生成される。光音天に行ってた衆生は、新しくできたこの世界にまた転生する。世界の再生成のための原動力と材料はどこから出てきてるんだろう。どっかにエネルギーなり物質が貯蔵されているのか、それとも、この世界の内部にある状態ではあるのか。

2016-04-12 05:14:03
CMTC @MontyGlycon0

「世界が滅ぶ」というのは、それぞれの世界のエネルギー源的なものがモードチェンジした結果、宇宙や自然界に還元されなくなったりして衆生が住めない環境になったり、急にしぼんで住む場所がなくなったりする状態を指しているのだろうか。

2016-04-12 05:17:53
CMTC @MontyGlycon0

気になる点は、いかなるメカニズムでそれは起こっている(と仮定・想定できる)か、それぞれの世界にシステム的なものが内蔵されているのか。それとも、法(ダルマ)が効力を及ぼす範囲内(「範囲外」というものはあるのだろうか)にそれぞれの世界があるなら、世界の滅びと再生成は自動で起こるのか。

2016-04-12 05:22:54
CMTC @MontyGlycon0

人間道・畜生道含む六道輪廻が無始無終とすると、この世界サイクルもまた無始無終で繰り返されている事になる。ブランクがありながらも永遠の昔から人間や動物が存在してきた、という事は、永遠の昔から人間や動物が住める世界が再生成という形で確保されていたということ。

2016-04-12 05:25:41
CMTC @MontyGlycon0

システム・サイクルがどうやって維持されてきたか、という部分も疑問だが、やはりエネルギー源マジでどうなってるんですかね……という気持ちにならざるを得ない。エントロピーとかあったらいずれ終わってしまう。

2016-04-12 05:29:42
CMTC @MontyGlycon0

創造主の存在を説くアブラハムの宗教に劣らず、仏教もまたとてつもない主張をしている。いわゆる「第一原因」を認めると、その原因は何なんだ、という問いが生まれるが、「世界などは永遠の昔からある」と言ってしまうと、それはそれで、常識からするとかなり力技を使った世界観になってしまう。

2016-04-12 05:33:34
CMTC @MontyGlycon0

もちろん、常識に合致しているから真理、とは限らない。しかし超自然込みで常識や一般的な理屈や論理を超えたものを認めてしまうと、「合理的ではない」という理由では、一方的に相手の世界観に無理がある、とは言えなくなる。言えなくなる、といってもあくまで客観的を目指した議論での事だが。

2016-04-12 05:38:22
CMTC @MontyGlycon0

世界が滅んでまた生成、という現象にエネルギーが使われない、とは考えにくい。エネルギーが使われるとなると、外部からの供給が無いといずれ枯渇してサイクル自体が成立しなくなる、という可能性が想定できる。もしエネルギーを消費せずに生成が可能となると、それは「無からの創造」とほぼ同義になる

2016-04-12 05:45:11
CMTC @MontyGlycon0

マザー・テレサ批判とコストの話 togetter.com/li/958923 こちらでの仏教徒からのコメントを見るに、「無始無終であること」は問題ないようだ。それ自体は因果には反しない、と考えられている模様。しかし、創造主が無から有を生み出すという点は引っかかるようだ。

2016-04-12 05:51:12
CMTC @MontyGlycon0

創造主系の神話・創造描写を見ればわかるが、そうした宗教では神は行動する事で世界や他の被造物を創造している。『創世記』では言葉を介して天地を創造し、アダムに命の息を吹き込んでいる。そうした現象を生み出したり送り込んだりしているわけだ。

2016-04-12 05:56:44
CMTC @MontyGlycon0

無限・全知全能といった属性を創造主に認める宗教において、その神は創造などを行うにあたって外部からの供給を必要としない。エネルギーも材料ももらう必要が無い。

2016-04-12 06:02:28
CMTC @MontyGlycon0

世界の生滅や転生する衆生の移動などでエネルギーを消費し、その宇宙から無くなっていると仮定すると、どこかに無限の供給源を確保する必要が生じる。そうしないと無始無終の輪廻はいずれ終わりを迎えてしまう。一方、供給なしでそうした現象が起こる、とするなら、

2016-04-12 06:09:07
CMTC @MontyGlycon0

外部供給無しで行われる創造主による天地創造を、論理的には否定できなくなる。ある「有」を生み出すために他の「有」は必要ない事を認める形になるため。本人が無限なら、無から有を生み出せばよい。創造主本人が「無限の供給源」になってもよい。元手なしで創っても、元手を作ってから創っても無問題

2016-04-12 06:19:31
CMTC @MontyGlycon0

外部供給無しで行われる創造主による天地創造を、論理的には否定できなくなる。ある「有」を生み出すために他の「有」は必要ない事を認める形になる為。 本人が無限なら、無から有を生み出せばよい。創造主本人が「無限の供給源」になってもよい。元手なしで創っても、元手を作ってから創っても無問題

2016-04-12 06:21:26
CMTC @MontyGlycon0

ちなみに、ヒンドゥー教においては、(仏教のように)世界と衆生は無始無終で、(アブラハムの宗教のように)創造主がいる。『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナ(ヴィシュヌ)は仏教の法(ダルマ)とアブラハムの宗教の創造主を兼任したような存在として描写されている。

2016-04-12 06:51:37
CMTC @MontyGlycon0

ヴィシュヌは世界を生滅させ、衆生を創造し、その来世を信仰とカルマ(業、行動)に応じて定める。ヒンドゥー教における創造主、イーシュヴァラ(主宰神)の概念は古くからあり、仏教は反論を行っている。

2016-04-12 07:00:12
CMTC @MontyGlycon0

Prajnakaraguptaの主宰神批判:山羊のウンコは何故丸いのか?kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-241… しかしながらこういう、自分のような無宗教者から見てもしょうもない論の運びのものもある。純粋に、感性に基づく論としか評し様が無い。

2016-04-12 07:02:55
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コメント

Heyw65kZ4RiU @29zgJQepexzZ 2016年4月12日
宗教的な創造論の世界観の合理性を科学的な世界観の合理性と対置させようとするには、信心を介さなきゃ無理なんだけど、そこら辺のスルーっぷりは大丈夫なんだろうか
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みかげ @mikage_robeppu 2016年4月12日
宗教の「理」というのは基本的に神仏の状態や世界のルールを人間側の範疇に落とし込んだもの、に過ぎない。 だからある宗教の「理」をある人間が信じようが信じまいがその宗教に基づいた世界のルールは変わらない。 重力を信じなくても高所から落下したら死ぬ。 ただ宗教ごとに「理」やルールは異なるし、ルールは似てても解釈は違ったりする。 それを選び取る意思が信仰である。
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kkitmur @kkitmur 2016年4月13日
宗教の話に科学的合理性があるかどうか論ずるのは自分にもちょっと無味乾燥という風に思えますね。特にエネルギー論については、実際のところ「人の感覚」(永劫に続くものはあるだろう、という感覚)には反するものですし、Prajnakaraguptaの主宰神批判はその逆に「人の感覚」(人はどんなに愚かであっても目的がなければ行動しない、という感覚)によりそったものでしょう。宗教というのは人の感覚に寄り添って作られるものなので、語る上でそれを無碍にすることはできません
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