「英国聖公会宣教師ジョン・バチェラー」アイヌの父か?英国による日本植民地計画のスパイか?まとめ
- happykilala
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当時、世界の覇権国家であった英国は東洋に多くの植民地を支配しており多くのキリスト教宣教師を派遣していました。とある。英国の植民地政策はいい政策で日本の植民地政策は悪い政策だと流布するための宣教師と考えても不思議ではない。
2016-05-20 07:17:23ジョン・バチェラーは14歳で小学校卒業後、弁護士を目指しますが弁護士試験に失敗したため、大きな農場に職を得て働きながら夜間学校を卒業。さらにロンドンのイズリントン神学校、ケンブリッジ大学神学部を卒業。
2016-05-20 09:30:22ジョン・バチェラーは母校の勧めにより香港にある東洋で働く宣教師養成のための聖ポーロ・カレッジ入学のために英国を離れて香港へ行く。このときバチェラーは22歳であった。
2016-05-20 09:32:381876年(明治9)11月11日香港に到着したバチェラーは宣教師養成の神学と中国語の勉強を始める。3カ月ほど過ぎた頃から香港の気候風土身体に合わず体調を崩す。夜は百足・油虫・蚊などに攻められて不眠症になり、マラリアに罹り毎日高熱が続いたと言われている。
2016-05-20 09:36:56バチェラーは英国と気候風土の似た土地へ転地療養を勧められて日本行きを決め香港を発ち、1877年(明治10)3月15日横浜港に到着。東京の医師の治療を受けた結果もっと寒冷の地がよいと言われる。東京より北は函館にしか聖公会がなかったので、函館行きを決意する。
2016-05-20 09:41:03バチェラーは米国の小さな貨物船にやっと乗せてもらって1877年(明治10)5月1日函館に到着。聖公会北海道伝道の先駆者ウォルター・デニングの指導を受けてまず日本語の勉強をし、半年後にアイヌ語の勉強を始めたとされる。
2016-05-20 09:45:29ここまでで、ジョン・バチェラーについての疑問:聖ポーロ・カレッジは卒業していない。農園で働いていた割には不眠症になるほど虫が大嫌い。マラリアは蚊に刺されことで発症するけど、北海道に来ても蚊は存在する事。
2016-05-20 10:14:231878年(明治11)秋、バチェラーは札幌に行って開拓使長官黒田清隆と会見。日本家屋を1軒借りて札幌に滞在、対雁(ついしかり)のアイヌデンペから直接アイヌ語を習う。デンペの案内で対雁を訪ねアイヌの風俗習慣など見聞を広める。同年12月、札幌を引き揚げ函館に戻る。
2016-05-20 10:24:521878年(明治11)バチェラーは、イギリス教会宣教会(CMS)信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。
2016-05-20 11:14:511879年(明治12)5月バチェラーは胆振の有珠コタンを訪問、9月デニングとともに平取のアイヌコタンを訪問、バチェラーの熱心な布教活動によりペンリウク首長と平取コタンのアイヌの人々は心を撃たれ、ペンリウク首長は自宅を増築してバチェラーの部屋を作るほどだった。
2016-05-20 11:20:481879年(明治12)9月から12月までの約3ヵ月間、バチェラーはペンリウク首長宅に滞在、アイヌ語を学ぶ。同年、バチェラーは正式に英国聖公会の宣教師に任命される。
2016-05-20 11:24:381880年(明治13)デニングとバチェラーは再び平取を訪問、札幌、石狩、室蘭、小樽方面も訪問。1881年(明治14)バチェラーは再び平取のペンリウクに約6カ月滞在しアイヌ語を学びながら伝道する。
2016-05-20 11:32:191881年(明治14)12月~1882年(明治15)4月までバチェラー第一回英国帰国。ケンブリッジ大学で6週間神学の特別研究をして、イズリントン神学校に再入学して勉強に励む。
2016-05-20 11:44:291884年(明治17)元旦、東京英国大使館でバチェラー(30歳)は函館宣教師会代表ウォルター・アンデレスの妹ルイザ(41歳)と結婚式を挙げる。同年1月下旬、アイヌ本「蝦夷今昔物語」を「函館英国人バチロル」の名で出版。
2016-05-20 11:49:021884年(明治17)バチェラーは妻ルイザとともに関西旅行、大阪で「アイヌ民族の風俗」について講演、その後、北海道内各地へ6ヵ月間の伝道旅行をする。
2016-05-20 11:51:57狩猟を禁止されたアイヌ民族の食生活の変化に伴う基礎体力の低下を心配して、バチェラーは禁酒を強く勧めた。しかし日本人役人の布教活動に対する介入もあって、告訴事件となり、誤解を受けてコタンの人々とこじれる。
2016-05-20 11:56:241885年(明治18)バチェラーは平取滞在を打ち切り、室蘭、伊達、白老、釧路、厚岸、網走などのコタンを訪ねて、アイヌ語で伝道活動を続けた。
2016-05-20 11:58:501886年(明治19)5月バチェラーはルイザ夫人、養女キン、召使パラピタ夫妻の5人で布教活動の為、函館の住居を幌別に移して定住。札幌に転居するまでの6年間ここを拠点にして、日高地方まで馬に乗って布教活動に出かけたとある。
2016-05-20 13:58:001888年(明治21)バチェラーは就学率の低いアイヌの子供の為に、良心的な和人や伝道教会の募金を元に最初の「愛隣学校」を設立する。これが後に北海道各地に作られたアイヌのための「愛隣学校」のモデルとなり、バチェラーはこの時の経験を活かして各地の指導にあたった。
2016-05-20 14:03:011890年(明治23)1月~1891年(明治24)6月までバチェラー夫妻第二回英国帰国。英国である村の牧師を6ヵ月間務める。また英国滞在中、ヨハネ副音書・マルコ副音書などのアイヌ語訳を出版。
2016-05-20 14:05:491891年(明治24)バチェラー37歳、平取に戻りコタンの人々と再会。ペンリウク首長も6年前の非礼を詫びて快く迎えた。コタンの人々は次々とキリスト教に入信し、その数は100人以上になった。
2016-05-20 14:09:171895年(明治28)5月、バチェラーは英国伝道教会の援助を待ち切れず、自費で平取に教会堂を建てました。そして次の伝道地伊達町有珠へ向かいます。1896年(明治29)ここでも、有珠コタンの信者の為に教会堂を建てた。
2016-05-20 14:12:111892年(明治25)バチェラーは札幌に転居。伝道活動は北海道各地、さらに樺太の辺地までおよび、樺太アイヌ、ギリヤーク人、オロッコ人などにも布教活動を行う。
2016-05-20 14:15:01