「英国聖公会宣教師ジョン・バチェラー」アイヌの父か?英国による日本植民地計画のスパイか?まとめ

二律背反な生き方をしてきたジョン・バチェラーの検証・調査まとめ。バチェラーはアイヌのために献身的な活動をしても日本人の為には活動をしなかった。
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キララ@流星群 @happykilala

1896年(明治29)英国聖公会派遣のロンドンの病院で看護婦をしていたエディース・メアリ・ブラント女史(1859-1934)が来日。約1年半バチェラーからアイヌ語を学び、後に平取に赴任。13年間アイヌの伝道・医療・私塾を開いて献身的に尽くした。

2016-05-20 14:19:38
キララ@流星群 @happykilala

1900年(明治33)12月~1902年(明治35)5月までの間、バチェラー第三回英国帰国。札幌の自宅隣接地にアイヌ様式を取り入れたアイヌのための無料診療所を開設。バチェラーは英国伝道協会に援助金を求めたが、経営は厳しく、札幌市立病院の関場不二彦院長が無償で診療に協力した。

2016-05-20 14:30:11
キララ@流星群 @happykilala

バチェラーは自宅別棟に「アイヌガールズホーム」を建築して、多くの身寄りのないアイヌの女子児童を引き取り勉強を教えた。アイヌ女児の中で優秀な向井八重子を支援して進学させる。

2016-05-20 14:34:51
キララ@流星群 @happykilala

1906年(明治39)10月30日、バチェラーは八重子を養女に迎える。また八重子の弟・向井山雄の才能も見込んで立教大学文学部神学科卒業まで学資の支援をした。

2016-05-20 14:37:32
キララ@流星群 @happykilala

1908年(明治41)12月~1910年(明治43)4月の間、第四回英国帰国。バチェラーはルイザ夫人、八重子を伴ってシベリア鉄道経由で帰国。英国帰国直後に、日本から明治天皇下賜の勲四等の勲章が送られて感激したとのこと。よく年秋、カンタベリー大僧正より神学博士の学位を贈られる。

2016-05-20 14:41:59
キララ@流星群 @happykilala

英国帰国中、八重子はバチェラーの通訳を元に各地で講演、寄付を受ける。日本に戻るとバチェラーは明治天皇の観桜御会に招かれて、天皇に謁見し握手を求められた。このことによりバチェラーの名声は日本全国に広まることとなる。

2016-05-20 14:47:00
キララ@流星群 @happykilala

1920年(大正9)バチェラーは中学生以上のアイヌに教育を受けさせるため寄宿舎「バチェラー学園」を創設。アイヌの子供たちを札幌に集めて生活費や学費など経済援助をして中学以上の学校へ通学させた。

2016-05-20 14:50:49
キララ@流星群 @happykilala

1923年(大正12)バチェラー70歳で宣教師を退職。その後も札幌に住み1928年(昭和3)10月自叙伝「我が記憶をたどりて」を出版。

2016-05-20 14:58:40
キララ@流星群 @happykilala

1930年(昭和5)「バチェラー学園」は資金不足のため、新渡戸稲造を会長とする「バチェラー学園後援会」が設立され、活発な募金活動が始められる。各新聞報道もあり次第に寄付金が集まり1931年(昭和6)待望の財団法人が認可される。

2016-05-20 15:01:19
キララ@流星群 @happykilala

1932年(昭和7)5月バチェラーは昭和天皇より勲三等瑞宝章を贈られる。 1936年(昭和11)4月6日妻ルイザ老衰のため92歳で死去。

2016-05-20 15:05:00
キララ@流星群 @happykilala

1936年(昭和11)10月~1937年(昭和12)3月の間、バチェラー第五回英国帰国。同年10月、妻ルイザの姪フローレンス・アンデレスがバチェラーの援助ために来日。

2016-05-20 15:07:16
キララ@流星群 @happykilala

1940年(昭和15)12月、バチェラー86歳。太平洋戦争への突入により敵性外国人として帰国を余儀なくされる。バチェラーは八重子に「必ず戻る」と言い残して姪のアンデレスとともに日本を去る。その後、カナダのバンクーバー島の親類宅に2年間滞在。

2016-05-20 15:12:12
キララ@流星群 @happykilala

英国の郷里アクフィールドの生家で姪のアンデレスが最後まで世話をしていたが、1944年(昭和19)4月2日バチェラー脳溢血のため90歳の生涯を終える。その報せが日本に届いたのは2年後の1946年(昭和21)8月だったと言われている。

2016-05-20 15:16:24
キララ@流星群 @happykilala

やっと、マサチューセッツ協会のバチェラーに関するまとめ終わりです。

2016-05-20 15:24:37
キララ@流星群 @happykilala

対雁(ついしかり)(現在の江別)の事が出たので、対雁のアイヌは日本政府に無理やり強制移住させられたと言ったのかもしれないけど、1875年の千島樺太交換条約をよく見てほしい。 pic.twitter.com/sTP31qjvd6

2016-05-20 19:15:06
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キララ@流星群 @happykilala

千島樺太交換条約:樺太に住んでいる和人(日本人)は日本国籍のまま樺太に住むことが出来、なおかつ営業、所有の権利、信教の自由が保障された。原住民族はロシア国籍か日本国籍か選択しなければなず、国籍選択については3年間の期限が設けられた

2016-05-20 19:36:55
キララ@流星群 @happykilala

千島樺太交換条約で日本国籍を選択した樺太原住民族(アイヌ含む)は北海道対雁に移住となる。開拓事業に不向きだったのはアイヌだけでなく、当時北海道開拓に従事した和人(日本人)も同じ。開拓使は移住先を選択できなくても開拓事業に取り組みました

2016-05-20 19:46:58
キララ@流星群 @happykilala

1875年(明治8)千島樺太交換条約が調印された同年、札幌琴似に旧会津藩士らが入植して初の屯田兵村がスタートした。同年10月政府は条約に基づき樺太から先住民族アイヌ人たち百八戸計八四十一人をひとまず宗谷に移住、翌年六月に対雁に強制移住となった。開拓使著書「北の礎」

2016-05-20 20:02:41
キララ@流星群 @happykilala

樺太先住民族アイヌが希望した移住先は宗谷だったが、開拓使はアイヌが望郷のあまり故郷樺太に帰国して国際紛争を起こしてしまわないか恐れた。それにより内陸部で農耕に従事し日本人に同化してもらおう、と強い抵抗を押し切って対雁に移住となったのである

2016-05-20 20:19:21
キララ@流星群 @happykilala

開拓使は屯田兵と同様に、対雁移住のアイヌに対して保護政策をとった。一戸あたり五十五円の住居費支給、移住から三年間、米塩代を与えた他石狩川の鮭魚場三カ所、厚田郡建網場三カ所を買い取って漁業に就かせようとした。また試作畑七千七百坪(約2.5ヘクタール)を設けて農耕の訓練をし

2016-05-20 20:26:22
キララ@流星群 @happykilala

未開拓地五万坪(約16ヘクタール)を割り当てて開墾を促した。養蚕や麻の栽培を推奨し道具なども貸しつけた。1877年(明治10)対雁に官立の教育所を開設し子弟の教育を始めた

2016-05-20 20:30:08
キララ@流星群 @happykilala

ところがこの年、意外な災禍が対雁の人々を襲った。西南戦争の従軍屯田兵が帰国の船中コレラを発病、札幌・函館地方を中心に百二十七人の患者が発生し、九十三人が死亡した。

2016-05-20 20:37:09
キララ@流星群 @happykilala

開拓使は1871年(明治4)に北海道内のアイヌ民族を対象に「死亡者の居宅の自焼、転住の禁止」を布達。アイヌにとって死者が出た居宅の焼却の習慣があったのか、伝染病蔓延防止の焼却だったかはともかく対雁のコタンに大きな打撃を与えた。

2016-05-20 20:43:21
キララ@流星群 @happykilala

対雁のアイヌの話はこれくらいにして、バチェラーに戻る。

2016-05-20 20:48:58
キララ@流星群 @happykilala

それでも「日本政府に無理やり強制移住させられた」というアイヌは和人(日本人)からの信頼を得ることのできなかった民族ってなるけど、歴史的に見て樺太に元・高麗軍が攻めてきた原因はアイヌだし、同族同士で揉め事ばかり起こしてきたわけで仕方ないと結論する

2016-05-20 21:08:00
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