パフォーマティヴィティ概念の解釈をめぐる江口先生とのやりとり
@frroots ただし、その◯◯の部分にどういうものが入りうるかによってうまくいくかどうか決まりそうですが。どんなものが入りますか?
2011-10-11 02:21:08@frroots しかし、ではそうでない理解ってのがどれほどあるのか。それほど自明なことをバトラー先生や小宮先生は主張しているのか。もちろん自明なことを言ってるだけだ、ってのならOKです。トリヴィアル。
2011-10-11 02:23:16@frroots 私が、小宮先生は非常にトリヴィアルな主張をしていたのだ、という理解に到達することを許してもらえば、これはすごくラッキーなことです。
2011-10-11 02:24:32@eguchi1965 上手くいくかは、実際に結びつきを辿って実践の記述をおこなってみて考えることかなと思います。「行為遂行的発言」の定義だけでは適切性条件が明らかにはならないように。私の本では「アイデンティティ・カテゴリー」と呼ぶものがそこに入ってます。
2011-10-11 02:24:49@eguchi1965 たとえば西阪さんの「分散する身体」では、医療実践の記述をとおして、「身体」をそこに入れる可能性が模索されていると思います。
2011-10-11 02:27:37@eguchi1965 トリヴィアルでつまらないと言われてしまえば私の筆力をお詫びするしかないのですが、でも言われて見ればトリヴィアルに思える常識的知識が、法的実践をどう形づくっているかを多少なりとも明確にすることで言えることもあると思ったので、書きました。
2011-10-11 02:29:38やっぱり方法的手続きを一定の体系性を持って記述できていないのがいけないんだよなぁ。それは当時の私の限界で、今後技術を磨かないといけない。
2011-10-11 02:37:52まあでも「結びついてます」っていう命題がインプリケーションなのではなくて、それを辿ることで描かれる実践の輪郭がインプリケーションなのですとは言っておいたほうがいい。描き方は稚拙かもしれないけれども。
2011-10-11 03:09:48これ答えてなかったですね。QT @eguchi1965:frroots 「人間はもとから固定したある種の人である」って考え方を否定したかったのかな?
2011-10-11 11:35:53アイデンティティの理解可能性が、我々のおこなっているその都度の実践の中にある、ということは確かに言いたいことです。でもそれはそれだけ取り出せばトリヴィアルにも見えてしまうでしょう。重要なのはどちらかというとその帰結のほうです。
2011-10-11 11:39:06ひとつは一般的な話で、では私たちが特定のアイデンティティを持つのは、いつどのようなときにどのようにしてなのか、という経験的な問いが生まれるということ。これは社会学者にとっては実はとても大きな問いです。
2011-10-11 11:39:31もうひとつは個別的な話で、たとえば「被害者の意思を理解する」ことひとつ取っても、それが行為やアイデンティティを理解する実践の中でおこなわれる様子に照らせば、その実践と切り離されたところで「性的自由」を云々することで見えなくなるものに気づくことができたりすることはあるでしょう。
2011-10-11 11:40:40行為の理解とアイデンティティや意図の理解って結びついていますよね、ということがトリヴィアルに見えたとしても、じゃあその結びつきのもとで、社会的事実とか制度的事実とか呼ばれるものがどうやって成立しているのかという問いはそんなにトリヴィアルではないです。
2011-10-11 11:51:20「約束するよ」って言うとき私たちは「行為してる」よね、ということ自体はトリヴィアルでも、じゃあ言葉を使うことがいかにして行為することになっているのかという問いはトリヴィアルではないように。
2011-10-11 11:51:31