がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか
- hijijikiki
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●本まとめのやり取りを、コメント欄から引用したブログ記事::
「エヴァ・キテイとセーシャのこと」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65772326.html
●やり取りで引用された/関連するまとめ、ブログ記事:
★『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』http://togetter.com/li/403603
★『「おかあさんは一人の人間」じゃダメなの?:介護者の人権について、「小さなギブアップ」ができる支援からゲイツ財団まで』http://togetter.com/li/252433
★「ケアラーたちの本当の顔」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63941675.html
⇒ まとめ末尾に引用しました。
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●ご参考:本まとめに対するご質問と、それへの回答を以下に ↓ 掲載します
@hahaguma @darumagaeru7 @neroli_peko まとめのご紹介です⇒「がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか」http://t.co/4IQ5YjWI
2012-11-22 22:11:23@hijijikiki 私は頑張った記憶はあまりないです。必要なことをやっただけで。頑張ってない親を私は見たことがないですが、何を基準にした何に対する批判なのでしょうか。子育てをつまんなくしてるのはそういう人自身でしょうね。やはりひじきききさんの提示されることにはピンと来ません。
2012-11-22 22:45:57.@neroli_peko 「頑張ってない親を私は見たことがないですが、何を基準にした何に対する批判なのでしょうか」>ご案内した拙まとめ(続編も含む)全体がそれに関連しますので、ひとことでは説明できません。ごく一部のみ、かいつまんで言うと、(続く
2012-11-23 21:57:56@hijijikiki @neroli_peko 続き)頑張りすぎることで燃え尽きたり、周囲の人が引け目を感じてしまって支援を求めにくくなってしまうような事態を改善するために、社会がもっと支援を増やす(税金を投入し制度を充実させる)べきだということです。
2012-11-23 21:58:36@hijijikiki 何故社会に求めるのかがわかりません。そんなの、ダメな人はいくら支援が整っていてもダメですよ。解決しません。支援は自分が何を求めるのかを把握でき、求める場所を探せる行動力や情報収集力、コミュニケーション力が必要です。それができない人が苦労するわけです。
2012-11-23 22:55:54@hijijikiki 私は娘が利用できる支援については調べあげています。一部の支援が切られた時は厚労省へ訴えもしました。景気が悪くなるとまずは福祉に対する予算が切られます。まずは景気回復ですよ。それが叶わないと障害者に対する支援をいくら訴えてもムダです。お金がないわけですから。
2012-11-23 22:58:59私は@neroli_pekoさんと逆で、社会は人が生きる場所であり、誰でもまともに生きられる社会がよい社会であると思っています。これ以上の詳細は、ご案内したまとめなどに、私としての回答を既に述べているので、繰り返しません。お読みいただければと思います。
2012-11-24 01:36:00@hijijikiki 前述の社会を実現するよう、政治や社会を変えるために最適任なのは、政策やこれまでの言動から、都知事候補の宇都宮けんじ氏http://t.co/kipPSOCpだと思います。他の政治家も続いて欲しい。都民以外の方(私もだが)も注目して応援して欲しいです。
2012-11-24 17:44:54■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
● 以下に、ブログ記事
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65772326.html
のコメント欄でのやり取りを、引用・まとめました。
まとめ『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』http://togetter.com/li/403603について、spitzibara氏らとやり取りしたもの(+momongazet氏のコメント)を引用しました。
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@hijijikikiの投稿:
こんばんは。hijijikikiです。まとめ⇒
『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』
を作成しました。
(URLが張り付けられないようなので、上記『』内の題名で検索してください)。
まとめにspitzibaraさんのブログ記事などを引用させてもらいました。やり取りの相手の方は、自己犠牲を自身の誇りにされ、それは他人にも当然のこと、と思われているようで、上のspitzibaraさんの「自分自身の人生を生きたい思い‥だからといって私たちが娘を愛していないわけじゃない」のような考えを認めてないようです。
2012/11/14(水) 午後 10:54 [ @hijijikiki ]
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しかし他方で、支援を受けることについては「私(たち)は特別」という"保守の二重規範"と呼べるような主張が強烈に印象的でした。生身で生きている我々は皆、「私は特別、例外」という"保守"的な面はどこかに必ず存在するものだと思います。極めて困難な状況ではなおさらです。
しかし、自身の「自分の特別さ」と、他人の「自分の特別さ」の内容は違ってることを認めないで、自身の特別さの基準をそのまま他人に押し付けることが、平等主義と対立しがちな"保守"的思考の大きな問題、との感を強くしました。長々と失礼しました。
2012/11/14(水) 午後 10:57 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、おはようございます。いつも興味深いまとめを提供してくださって、ありがとうございます。
この方の言われることには既視感が満載……というのが最初の印象でした。それは、子どもが幼い頃に多くの母親仲間から聞いてきたことという意味での既視感でもあるし、私を含めて今はそんなことを言わなくなった仲間の誰もが「かつて自分もそこにいた」場所を感じるという意味での既視感でもあります。
一番それを強く感じたのは「絶対に将来働ける大人にしてみせる」「自分の足で立って、自分で選んで生きていける術を身に付ける」とおっしゃっている個所かな。私も周囲の母親仲間も、かつてこれを思って「療育」に必死になったのだと思います。そして、それが子どもの障害を「受容」できている母親の理想形だと考えていたし、周囲にもそういう胸の張り方をしていた。障害があっても健常な子どもと何も変わりません、まったく同じです、と世間に向けても主張していたような気がします。
2012/11/15(木) 午前 10:01 [ spi*zi*ar* ]
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いま振り返ると、それはやっぱり子どもの障害を受容して、障害のある子どもの親としての自分を整えていくプロセスとして必要なことだったと思う。本当の「受容」はそこからさらに、らせん状に続いていくのだということを、その先を生きながら学ばざるをえないし、本当の強さとは「ほら私はこんなに大丈夫。障害があっても全然平気」と人の力を借りずにやってみせられることでもないのだけど。
介護者支援の課題の一つが、こうした「私は大丈夫」の壁をいかに超えてもらうか、ということなんですけど、それについては某所にちょこっと書いてみたので、そのうちに刊行されたら読んでやってください。
この方は、ものすごく頑張っておられるお母さんなんだなぁ、ということを何よりも思います。
2012/11/15(木) 午前 10:08 [ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
spitzibaraさん、お返事ありがとうございます。
ご指摘の「自分を持していく」というのが、ものごとの基底にあるように思います。
生身で生きている我々は、どんな困難な状況でも、とにかく今日を生存する、生活を回して生き延びてゆく(健康で文化的な生活をしてゆく)ことがまず第一にあると。
この社会では、支援の行き届いた"健常者"や主流の人なら、この、生き延びることは空気のようなもので、そのために「自分を持していく」必要を意識しない場合がほとんどでしょう。
しかし、支援が行き届きにくい/行き届いていない困難な状況であればあるほど、この「持する自分」「私は大丈夫」を固く強固にしないと精神的に持たない、やってゆけない状況なのでしょう。
更に「子どもの母親」という立場は、外からの「母親として合格か」、「子育ての責任は母親」という視線から身を守るための防御が必要で、更に子どもが"障害児"である場合には、そのことで後ろ指さされないためのより強い防御、堅固な鎧を身にまとう必要がある場合が多いのかもしれません。
2012/11/16(金) 午前 1:00[ @hijijikiki ]
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貴ブログの、翻訳された記事「ケアラーたちの本当の顔」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63941675.html。ケアラー(家族を介護している人)の置かれた状況の分かられにくさや困難さが、とても平易で感覚的にわかりやすく書かれていて、良い記事だと思いました。
ケアラーを支援することの重要性は、やっと最近言われ始めてきました。しかし介護保険の家事支援への支給は、同居家族がいると給付されないなど、実態はまだまだ家族(特に女性)の負担は社会的なものと見なされてないようです。
ケアラーへの支援は、まず自分(たち)が困難な状況にあること、支援を受けることは当然の権利であり、恥ずべきことではないこと、などを類似の状況の当事者・支援者と共に語り合うこと。支援をどのように受けたか、それがどのように良かったか悪かったかの経験を共有化すること、などでしょうか(spitzibaraさんは既になさっていると思いますが)。
2012/11/16(金) 午前 1:06[ @hijijikiki ]
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「私は大丈夫」と過剰に「自分を持して」いくために固い鎧を身にまとい、自分も周囲も傷つけてしまうことを緩和して、生きやすくすることは、困難で、かつ重要な課題だ、ということを改めて感じました。
この固い鎧を脱いでも大丈夫だと感じさせるような、「太陽政策」的な支援や活動は、福祉予算削減の北風が吹いている、公的支援を切り捨てようとする現状では、とても大きな困難があると思います。
社会は人が生きる場所であり、誰でもまともに生きられる社会がよい社会で、それをめざそう、という多くの人が賛成するはずの、単純で当然の主張を共有して広げてゆくこと。ケアラーへの支援の問題も、見えにくいけど、ここにあると感じました。
まとまりませんがこの辺で。
2012/11/16(金) 午前 1:07[ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、おはようございます。同じ母親同士でもあり、頑張っておられる若いお母さんのことを思って、ちょっと書きにくく控えてしまった部分を丁寧に補ってくださるような深くツボをついたご理解をいただいて、心から感謝! です。
「海のいる風景」でも書いているのですが、母親仲間が「がんばっていない母親」を批判する時に、その口調は何故こんなに激烈になってしまうのだろう、と昔ずっと疑問に思っていました。自分がその「過剰」から抜け出せた時に初めて、その「何故」の答えが見えてきました。
そういう「過剰」の裏にあるものを理解しつつ、それを解きほぐせる社会に向けて、単純で当然の主張を共有し広げてゆくこと。hijijikikiさんのおっしゃる通りですね。
2012/11/16(金) 午前 8:42[ spi*zi*ar* ]
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「ケアラー達の本当の顔」に共感してくださって、ありがとうございます。ホント、この文章は良いですよね。初めて読んだ時にはジンとしました。せっかくだから、このあとTBしておこうかな。
これを書いた著者が「"身勝手な豚"の介護ガイド」という魅力的な本を出していて、男性介護者でなければなかなか吐露できない率直なホンネで書かれているので、翻訳紹介できたら、と夢見ているんですけど、このところ他のあれこれに取り紛れて、つい棚上げになっていました。hijijikikiさんのおかげで、棚の上から「おい」と声をかけられたようです。深謝。
2012/11/16(金) 午前 8:47[ spi*zi*ar* ]
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「"身勝手な豚"の介護ガイド」のエントリーもTBしようかと思ったら、「ケアラー達の本当の顔」エントリーの末尾にリンクしていました。
2012/11/16(金) 午前 8:53[ spi*zi*ar* ]
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momongazet氏の投稿:
spitzibaraさん、お久しぶりです。上のコメントとても興味深く読ませていただきました。私も障害児を抱えて右往左往しているところに「さぁ、あなたはこの障害を持つお子さんのお母さんでしょ?」と完成形の母親としての立ち位置で接してくる人々に本当に困惑しました。母親だからって知らんこともいっぱいあるし、ちょっと待って欲しいわ。こっちだって手探りやのに。そう言うとものすごく軽蔑の顔をされたこともあったし、陰で「なぜもっとがんばらないのか?」と非常識呼ばわりされたこともありました。心が薄ーい氷のようなときは本当にキツかったです。どの親御さんもこの子の親であろうと突っ走って偏った考えを信奉したり将来を信じてみたり絶望したり『子どもの障害を受容して、障害のある子どもの親としての自分を持していくプロセスとして必要なこと』本当にその通りだと感じました。そして、さらにぐるぐるとらせん状に続いていく。spitzibaraさんのブログや著作からは良い力を頂いています。私には良い先輩がいる。勝手にそんなふうに思っています。
2012/11/16(金) 午前 9:45[ momongazet ]
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spitzibara氏の投稿:
わぁぁ。momongazetさん! お久です!! お子さんたち、いろいろハプニングありながらも着実に大きく成長しておられますねぇ。momongazetさんがお子さんたちと季節感を大切に豊かな生活を送っておられることにいつも敬服しつつ、コメント書けずに読み逃げしていて、ごめんなさい。
心が薄ーい氷のようなとき……そうですよねぇ。ありましたよねぇ。
ミュウが小さい時、地域の障害児の親の会みたいなのがものすごく苦手でした。先輩のお母さんたちから直線的な口調で「こうあるべし」を押し付けられるのが、とにかくダメで。たぶん障害のある子どもの親に限らず、自分を過剰に縛ったり頑張らせている人が、他人にも同じことを求めるんでしょうね。自分だって通ってきた道なんだから、許容して待ってあげたっていいと思うのだけど、自分が通ってきた道だけに余計に見ているとイラッとする、というのもあるのかなぁ。
2012/11/16(金) 午前 11:12[ spi*zi*ar* ]
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momongazetさん、私たちみんな、らせん状のぐるぐるのプロセスの途中にいるんですよね。今「だいじょうぶ」と思えていたって、そのうちには「もういっそ……」と絶望するようなことだって起こるかもしれない。今「もういっそ……」と思っているからと言って、明日も来週も来年もそう思っているわけではきっとない。でも、そうやってぐるっとまた同じところに戻ってきたように思えても、回ってきただけらせん状に一つ高いところ(深いところの方かな?)にいると思いたい。なんか、そんな感じ? 子どもの障害の受容に限らず。
いい先輩っていうふうに受け止めていただいて、すごく嬉しいです。ありがとうございます。私もこのブログを通じて多くの親仲間ができて、とても多くを学ばせてもらって幸せです。
2012/11/16(金) 午前 11:18[ spi*zi*ar* ]
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momongazetさん、前に補遺に挙げたものなんですけど、生活書院さんのHPに重い自閉症と知的障害のある息子さんをお持ちの福井公子さんという方が「障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために」という連載を書いておられます。静かで穏やかなのに、とても力強い文章というか、世の中との向かい合い方というか。長い年月の間の葛藤やジタバタをくぐり抜けて、いろんなものから抜け出してこられた方なんだなぁ、と感じます。上で「過剰」とか「鎧」とか「縛り」ということを考えてきただけに、福井さんの「解き放ち」に向かおうとされる視線に改めて魅力を感じています。
http://seikatsushoin.com/web/fukui02.html
2012/11/16(金) 午前 11:28[ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
spitzibaraさん、こんばんは。
『母親仲間が「がんばっていない母親」を批判する時に、その口調は何故こんなに激烈になってしまう』>私も同様の経験が。勤め人になったばかりの頃に、「がんばってない同僚」を軽蔑してました。「自分がこんなに大変な思いをしているのに、そうしないヤツは許せーん」という感覚だろうか。「こんなにがんばっている私を認めて、支援して欲しい」という感覚も奥底にありそうな。
生活保護バッシングの背景に見えるのは、『「自分より得・楽している人がいるのは許せない」気分と「国のお世話になっている自分」を責める生活保護受給者の自殺率は平均の2倍であること』
というまとめで取り上げた、"許せない"気分・感覚とも共通点があるような、根が深い、本質的な問題だと感じています。
2012/11/17(土) 午前 1:05[ @hijijikiki ]
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『「"身勝手な豚"の介護ガイド」という魅力的な本を出していて、男性介護者でなければなかなか吐露できない率直なホンネ』>spitzibaraさんのブログでの、これの紹介記事「"身勝手な豚"の介護ガイド」シリーズ面白かったです。
その2の「あなた自身をもう一人の"子豚"に」
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63680775.html
は全く同感で、キモのところだと思います。ケアラー自身もケアされる人=子豚として、支援されるべきだ、というのは、前にまとめさせてもらった『「おかあさんは一人の人間」じゃダメなの?:介護者の人権について、「小さなギブアップ」ができる支援からゲイツ財団まで』
でのspitzibaraさんのご指摘と通じていますね。
2012/11/17(土) 午前 1:07[ @hijijikiki ]
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このシリーズの最後の記事の:
『…もちろん、この本では対処も解決もできないもっともっと深刻な問題が介護にはいっぱい潜んではいるんだけれども、それでも、やっぱり、
いや、それならば、なおさらに、愛のある介護をしているからこそ自分を"身勝手な豚"だと感じて苦しんでいるケアラーに、エールを送りたい』
にもとても同感です。
似た境遇や状態の人と、スキルやノウハウを話し合い、情報交換して、身近な問題を解決してゆくことが重要なのは、言うまでもないことです。
しかし、もう一方で、"身勝手な豚"さんや、それとは逆に声をあげられず、話を聞いてもらえないようなもっと弱い立場の人など、違った境遇や状態の人、しかし共有できることがありそうな立場の話を聞いたり、それについて話したりすることも、また重要かと。
2012/11/17(土) 午前 1:09[ @hijijikiki ]
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違った境遇や状態の人のことは、自分の問題とは離れているから、今すぐにはどうしようもないから、といって無視したり無いことにしたりするのは、ゆくゆくは自分(たち)に跳ね返ってくると思います。
今すぐ目に見える変化は期待薄であっても、社会は人が生きる場所であり、誰でもまともに生きられる社会がよい社会で、それをめざそう、という考えが共有され、広がってゆくことでのみ、それが徐々にではあれ、達成されるようになる、と思います。
「"身勝手な豚"の介護ガイド」、ぜひぜひ、翻訳とspitzibaraさんの注釈・感想など付きで、世に出してください。
momongazetさんとのやり取りも、興味深く拝見しました。「ぐるぐるのらせん状のプロセス中にいる」、その通りだと思います。生きていることは、どこかしら循環する過程、プロセスであって、無理のある急激な変化や、「直線状の進歩」はとても危なっかしいものだと思います。
2012/11/17(土) 午前 1:28[ @hijijikiki ]
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↑ 上記のやり取りの続きは ↓ 以下のまとめに続く。
●本まとめに続くまとめ:
「続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか」http://togetter.com/li/410124