(続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか

本まとめは、まとめ「がんばりすぎる障害児の母たち‥」http://togetter.com/li/410117 からの続きです。 まとめ『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』 について、重度心身障害児の母のspitzibaraさんとの、同氏のコメント欄でのやり取り。 『母親仲間が「がんばっていない母親」を批判する時に、その口調は何故こんなに激烈になってしまうのだろう』などの観点から、家族を介護するケアラーへの支援をどうするのか、などなど。障害児の母のmomongazetさん、なんさんのコメントも加えました。 続きを読む
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●本まとめのやり取りを、コメント欄から引用したブログ記事::

「エヴァ・キテイとセーシャのこと」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65772326.html

●やり取りで引用された/関連するまとめ、ブログ記事、書籍:

★『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』http://togetter.com/li/403603
★『「おかあさんは一人の人間」じゃダメなの?:介護者の人権について、「小さなギブアップ」ができる支援からゲイツ財団まで』http://togetter.com/li/252433
★『「新版 海のいる風景――重症心身障害のある子どもの親であるということ」刊行のお知らせ』http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65479583.html
 ⇒ まとめ末尾に引用しました。

 

まとめ 「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り 標記の問題について、幸福感や楽天性、将来の可能性や子ども中心の育て方、などの視点と、障害者への支援が不足していること、障害者への差別や被る不利益の問題など、社会のあり方への視点と、の間のやり取り。 ●追加しました。更に5回追加しました。 ■本まとめに関連するまとめ: ★「がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか」http://togetter.com/li/410117 ★「続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか」http://togetter.com/li/410124 を作成しました。 ●ツイートで引用されたまとめ&ブログ記事(まとめ末尾に掲載): ★「「3つの自立」と「障害の社会モデル」について」http://togetter.com/l.. 13766 pv 83 2 users 2
まとめ 「おかあさんは一人の人間」じゃダメなの?:介護者の人権について、「小さなギブアップ」ができる支援からゲイツ財団まで @spitzibaraさんのツイート、ブログ記事への、まとめ主@hijijikikiの感想などを、先行するまとめ「ちょっと恐ろしい詩のはなし:「彼ら笑う」石川逸子、をめぐるやりとり」http://togetter.com/li/250395への言及の続きとしてまとめました。 ●まとめ末尾に、@spitzibaraさんのブログ記事 「「介護」「障害のある子どもを持つ親であること」を巡るツイート 4: 2012年2月2日~3日」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64705300.html 「ゲイツ財団 と UW・IHME」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/folder/1735507.html を引用しました。 ★立岩真也『家族性分業論.. 4775 pv 27 4 users

● 以下に、ブログ記事

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65772326.html

のコメント欄でのやり取りを、引用・まとめました。

まとめ『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』http://togetter.com/li/403603について、spitzibara氏らとやり取りしたもの(+momongazet氏のコメント)を引用しました。


 ●本まとめに先行するまとめ:

「がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか」http://togetter.com/li/410117

まとめ がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか まとめ『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』 について、重度心身障害児の母のspitzibaraさんとの、同氏のコメント欄でのやり取り。 『母親仲間が「がんばっていない母親」を批判する時に、その口調は何故こんなに激烈になってしまうのだろう』などの観点から、家族を介護するケアラーへの支援をどうするのか、などなど。障害児の母のmomongazetさんのコメントも加えました。 コメント欄に書き込めなかったリンクを付加しました。 (文中に付加したトゥギャリのリンクが自動的に展開してしまい、見づらくなってしまいました。) ■長くなったので2つのまとめに分割しました。  ⇒ ★本まとめに続くまとめ: 「続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか」htt.. 6240 pv 35 13

 ↓ 以下のやり取りは、上記まとめ ↑ からの続きです。

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。そちらのまとめは作られ始めたころに、ちょっと読ませていただいていたのですが、改めて再訪させていただきました。これはもう、詳細な資料集ですね。

私も、先のまとめを読ませていただいた時に、やはり生活保護のバッシングのことを連想しました。そして、頭に「自己肯定」という言葉が浮かびました。そこから私の中では子どもの障害を親が受容するプロセスへ、さらに介護者として「助けて」と言える強さを持てるには何が必要なのか、という最近の自分の問題意識へと、さらに連想が繋がっていったみたいな。

hijijikikiさんとやりとりさせていただきながら、考えが少しずつ深まっていく感じがしているのですが、今朝のコメントをいただいて、ずっと頭の中で捉えられそうで捉えきれていなかったことが、ちょっと言葉になったような気がします。

「自己肯定できていない自分」に気付き、認め、自己肯定していく螺旋プロセスーー。

2012/11/17(土) 午前 9:53[ spi*zi*ar* ]

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介護者が困っている自分をありのままに認めて支援を求められるためには、その介護者が困っている弱い自分を認め許容できるだけの「人としての強さ」(例えば「障害児の親としての強さ」の前に、の意です)が必要なんじゃないか、では、その「人としての強さ」を持つためには何が必要なのか、ということを、このところずっと考えていて、そこで私が考えていたのが実は「許されること」だったんです。

娘を施設に入れた時に師長さんから「ここまで、よく頑張ってきたね」と言ってもらったんですけど、娘が生まれてから誰かに頑張っている自分を認めてもらったことはそれが初めてで、その時なぜか私は「ああ、やっと許してもらえた」と感じたんです。その後、母親仲間の一人が限界を超える生活からウツ状態になった時に、「私自身が寝たきりにでもならない限り許してもらえない」と言ったことがあって、それ以来、私たち障害のある子どもの母親は一体誰から「許してもらわなければならない」のだろう……とずっと考えてきました。

2012/11/17(土) 午前 9:55[ spi*zi*ar* ]

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その「許し」は、生活保護バッシングに見られる「許せない」とも「自分のように頑張っていない人は許せない」とも繋がっているのだろうと、今朝のコメントをいただいて思いました。

世間からの「許さない」に晒されて、それに脅かされ、過剰な頑張りを強いられている自分と、その自分を「許せない」でいる自分が、自分ほど頑張っていない他者に対して過剰に「許せない」と感じ、世間の「許さない」に乗っかってその再生産に加担していく……そういう循環みたいなものが、そこにある、と。

「許さない」世間の眼差しと同時に、それを内在化させて自分を「許せない」自分自身の眼差しが同時にそこにあり、さらに、そこから生まれる他者を「許さない」眼差しがあって、3つどもえになっている、のでは、ということ、でしょうか。

2012/11/17(土) 午前 9:56[ spi*zi*ar* ]

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子どもを施設に入れざるを得なかった、弱くて障害児の母親として失格者である自分を肯定していく螺旋状のプロセスというのは、私の中でもちろんまだ続いているのですが、

最近「新版 海のいる風景」で追加分を書く作業の中から新たに気付いたのは、「重い障害のある子どもの親である私」と「一人の人としての私」の中で引き裂かれてきた自分でした(それが上で書いた、支援を求められるためには、「障害児の親としての強さ」の前に「一人の人としての強さ」が必要なのでは、という視点に繋がっています)。

「許さない」眼差しを向けてくる社会によって、そんなふうに引き裂かれてしまっている自分に気付き、そんな自分を認め、自分がまず許すこと。それが、引き裂かれた自分を統合し、丸ごと自己肯定し、許していくプロセスそのものなんだろうとも思います。

じゃぁ、そのプロセスを可能にするためには何が必要なのか。どういう支援があれば、そのプロセスを後押しすることができるのか。

2012/11/17(土) 午前 9:57[ spi*zi*ar* ]

―――――――

一つには社会に具体的な支援のシステムがある、というのは大前提で、介護者支援について今のところ私が言わせてもらっているのは、とりあえず、①美意識で介護を語らないで。②支援する側から迎えに行く支援。③「小さなギブアップ」ができる社会、です。

それから、最近そこに付け加えたいと考えて、まだうまく整理できずに、ぐるぐるしていることがあります。

「介護者として、親としての私」の前に「一人の人としての私であること」を許してくれる人の存在というのが、私自身のプロセスにはとても大切だったということに気付き始めていて、そのあたりのことについては前にお話ししたように「某所」でちょっと書いてみました。春に刊行されたら読んでいただけると嬉しいです。

今回のやり取りさせていただいたことで、そこからさらに、上の三つ巴のアンチテーゼとして「許す社会」「自分が許されてあること」それがまた「他者を許せること」へという解きほぐしの3点セットに繋がるのでは、といったようなことが頭の中にぐるぐるし始めました。

2012/11/17(土) 午前 9:58[ spi*zi*ar* ]

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例えば「"身勝手な豚"の介護ガイド」のような本が介護者に届けられるということも、社会の側からの一つの「許し」のメッセージにもなるのかもしれないですね。hijijikikiさんからいただいたエールを胸に、いつか実現させたいです。

「許される」ことによって、「許さない」社会によって声を奪われている人たちが自分の「私」を語り始める力を得ることができる。そんな気がします、というか、そうであればと祈るような思い、というか、そこに声を奪われている人たちがいることに気づける社会であれば、とも祈りたい、というか。

"身勝手な豚"へのエールだけでなく、多くの気づきやヒントをいただきました。本当にありがとうございます。

2012/11/17(土) 午前 10:16[ spi*zi*ar* ]

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そういえば、前の「「おかあさんは一人の人間」じゃダメなの?」の時にhijijikikiさんから教えていただいた立岩先生の「前哨」を、あれから買って読んでみようとチャレンジしてはいるのですが、3回くらいチャレンジして、ようやく半分くらい行ったところかなぁ。しばらく挫折したままになっていますが、粘り強くチャレンジを続けてみますね。しかし、立岩先生の本はムズい……。

2012/11/17(土) 午前 10:44[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

spitzibaraさん、こんばんは。詳細な返信ありがとうございます。

拙まとめを読んでいただき、ありがとうございます。
わたし的には、障害者や障害児の親などの問題も、生活保護バッシングの問題などなども、世間で別物として扱われ、分類は違っていても、同じ根を持ち、多くの問題に共通するものだと思います。その点を共有していただけ、やり取りが、らせん状に深まってきたのも嬉しいです。

『世間からの「許さない」に晒されて、それに脅かされ、過剰な頑張りを強いられている自分と、その自分を「許せない」でいる自分が、自分ほど頑張っていない他者に対して過剰に「許せない」と感じ、世間の「許さない」に乗っかってその再生産に加担していく……そういう循環』>ここ、言いたかったことをうまくまとめてもらえて、ありがとうございます。

ご指摘の、この循環、悪循環が事態を悪化させ、当事者たちを苦しめる原動力になっているのだと思います。
この問題は詳しくは後ほどに。

2012/11/18(日) 午前 2:45[ @hijijikiki ]

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「社会に具体的な支援のシステムがある、というのは大前提で、介護者支援について今のところ私が言わせてもらっているのは、とりあえず、①美意識で介護を語らないで。②支援する側から迎えに行く支援。③「小さなギブアップ」ができる社会」>なるほど。spitzibaraさんのご経験や、介護者支援という観点からのご提案ですね。

下記の、私が考えている「支援システムとその利用」は、適用される分野や状況を特に限らずに、従って、ご提案よりも抽象的で、範囲を広く取ったものです。

まず第一に、①社会制度としての支援。生活保護や介護保険、学校教育や保育所など、法制化された、またはNPOなどの提供する社会福祉(金銭給付及びサービス給付)。
第二に、②上記の①の社会福祉制度やその他の支援(自分の収入や資産も含む)を、どのように利用するか、自分の実情にあった支援を実際に得る、受けるためのスキルやノウハウ。
第三に、③上記の②を含み、更に詳細かつ広範囲な支援に関する情報交換や働きかけ。類似の境遇や状態の人との情報交換・接触・協働・協力などによって、自分(たち)の身近な問題を解決・改善すること。

2012/11/18(日) 午前 2:46[ @hijijikiki ]

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spitzibaraさんのご提案の「大前提」が私の①(+②の一部)で、それ以降は分け方や観点の違いで、切り取り方は違っても、見ようとしている・問題にしている範囲はそう違ってないと思いますが、どうでしょうか。

私が強調したいのは、spitzibaraさんには釈迦に説法ですが、拙提案の①の制度としての支援=社会福祉制度、がなければ、②③は成り立たないか、一部の富裕層を除いて全く違ったものになってしまうことであり、社会的な支援のあり方が、当事者にとって文字通り死命を制する(餓死事件や、自殺も多数!)ということです。

これを無視して、否、見たくなくて、最初にご紹介した「社会の支援などあてにせずに暮らせばよい」という言説が、受給している当事者から出てくるのは、生活保護受給者の受給は恥という感覚と通じるものを感じます。この辺が、ご指摘の「頑張らないのを許さない循環」の根源&現れの一つかと。

2012/11/18(日) 午前 2:47[ @hijijikiki ]

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「子どもを施設に入れざるを得なかった、弱くて障害児の母親として失格者である自分を肯定していく螺旋状のプロセスというのは、私の中でもちろんまだ続いている」>そうだったんですか。spitzibaraさんも、まだ自己肯定感で悩んでおられるのですね。

ここで、映画の「ソフィーの選択」を思い出しました。ナチスの収容所で、ソフィーが「子どものうち一人を選べば、その子だけは助ける。選ばなければ二人とも殺す。」という「選択」を迫られた話です。
あとは、これらの話と同列にするのもはばかられる話で、「嫌がる子どもを保育園に連れてゆく親」(私の経験)です。

ソフィーがどのような「選択」をしても、それを非難する人はまずいないでしょう。むしろソフィーを非難することが非難される。それはナチスの犯罪、「選択」を迫ることも含む、がここでの悪の全てである、という判断、規範の共有がされているからでしょう。
私の「選択」(笑い)も同様に、「嫌がる子どもを保育園に連れてゆくこと」がごく日常的なことで、問題にならないという判断、規範の共有がなされているから非難されない(少なくとも私の経験からは)のでしょう。

2012/11/18(日) 午前 2:51[ @hijijikiki ]

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この2つの間にあるspitzibaraさんの「選択」が非難される(非難されるものと考える)理由はなんなのでしょうか?

これもソフィーや私の場合と同じく、規範の問題、「母親は自分で子どもを育てるべき」という規範があるからではないのでしょうか。
そして、ソフィーの場合と異なり、「選択の自由」があり、自己決定・自己責任とされているからでは。
このような規範が共有されている中では、子どもを施設に入れる母親は、自分が規範=世間の標準から外れているという肩身の狭い思いをし、運が悪ければ現実に非難がましい対応をされるのでは。

先に指摘された「頑張らないのを許さない循環」も、「頑張らない人は失格」「福祉に頼るのは失格」という規範を共有(内面化)しているからでしょう。
その規範が良いか悪いかの問題ではなく、その規範が共有(内面化)されているか否かの問題だと思います。

2012/11/18(日) 午前 2:53[ @hijijikiki ]

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いや、"内面化"という「内心の問題」のような表現は不適当で、実際に「規範を身につける」ことは、人々が自分に向ける視線や行動や言葉から、否応なく「わからせられる」ものであり、言葉が十分話せない小さな子どもでさえも、親や周囲のおとなの顔色をうかがって、「規範を身につける/身につけさせられる」ものだと思います。

では、規範は既に決まっており、容易には変えられないものでしょうか。必ずしもそうではない、という例でよく出すのは、セクハラの例です。部下の社員に「まだ結婚しないの」と聞くことは、セクハラの概念が普及するまでは何でもないことだったが、今や非常識なことでしょう。これも職場での上下関係や弱い立場への配慮に関する規範が変更した例だと思いますが、我々はそれほど強く意識せずに、このような変更を受け入れているのでは。

2012/11/18(日) 午前 2:54[ @hijijikiki ]

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また更に、規範に絡む"恐怖"の問題があります。規範に反する行為に対する反応は人それぞれですが、「まじめ」なタイプや、非主流の弱い立場(女性、障害者、外国人など)では、往々にして恐怖に結びつく場合が多いのではないかと思います。
この辺の恐怖の引き起こす反応・トラウマやPTSDについて、宮地尚子「環状島」http://www.arsvi.com/b2000/0712mn.htmhttp://invoice.cocolog-nifty.com/invoiceblog/2008/05/post_98b8.html(この本は規範については明示的には述べてないと思いますが)をご紹介したいのですが、長くなったので、また次の機会に。

規範や正義については、野崎泰伸さんがよく書かれてますが、立岩さんも、明示的には少ないけど、規範(何を価値とするか)を中心に置いた議論をしていると思います。立岩真也氏HPの「正義は語られた方がよいのだがどんな具合に語られているのだろう」http://www.arsvi.com/ts2000/20100026.htmなど

長くなりましたのでこの辺で。

2012/11/18(日) 午前 2:55[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。先に「自己肯定できていない自分」に気付き、認め、自己肯定していく螺旋プロセスーーと書いた時に、このままでは、あるいはここで止まったのでは「自己責任」になってしまう、と感じたのですが、hijijikikiさんが指摘してくださっているのは、まさにそのことですね。

私もツイッターをやっている時から、hijijikikiさんとは問題のとらえ方や考えていることの基本的な方向性が同じだと思っていました。その上で、アプローチの角度が、hijijikikiさんは社会保障の制度として広く具体的で、私は障害のある子どもを持った親の生きづらさと支援の問題として理念を語っているところが異なっている、というふうに理解していました。もう一つは、背景にある知識とこれまでの思索の積み重ねの厚みにも違いがあるなぁ、と思います。(これ、実は先のhijijikikiさんと若いお母さんのやり取りに感じたことでもありました)

2012/11/18(日) 午前 8:37[ spi*zi*ar* ]

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この循環、悪循環が事態を悪化させ、当事者たちを苦しめる原動力になっている、という認識と、にもかかわらず社会の方はさらに「許さない社会」へと向かっている、という危機感は、まったく同じだと思います。

その中で、支援制度がどうあるべきかというhijijikikiさんのご提案は、まさに「許さない」「自分を許せない」「他者を許せない」の循環に対応するものですね。これらは複合的に絡み合って、どれが先かとかいう問題ではなく、いろんな方向から考え「自己肯定できないところに追いやっていく社会」の問題にアプローチしていく必要があるのでしょう。先のまとめを読ませていただいて、まずは一人一人がその抑圧を受けている自分に気づき、抑圧してくる社会の在り方に気づくこと、気づかないでいることはその抑圧に間接的に加担することにつながると気付くことも大切なのだと思いました。

2012/11/18(日) 午前 8:48[ spi*zi*ar* ]

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私は問題意識の始まりが、重い障害のある子どもの親になったとたんに「母親」であることしか許されない、役割と機能に貶められて「一人の人」「私」であることが許されないことの痛みと生きづらさにあって、それがもっと広い射程に広がり始めたのが、やっと6年前のアシュリー事件なので、まだ介護者支援の問題と、いま世界で起こっていることへの危機感とが、私の中でもうまく統合されていないところがあります。が、おっしゃっているように、これらの問題はみんな繋がっていると私も思うし、これからも自分なりの角度で考え続けることで、そこのところが統合されていくといいな、と考えてもいます。

今後とも、共に考えさせていただき、いろいろと教えていただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。

実りの多い、いいやり取りをさせていただいて、ありがとうございました。「還状島」、読んでみますね!

2012/11/18(日) 午前 8:58[ spi*zi*ar* ]

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「還状島」をアマゾンで検索してみたところ、レビューの中に見つけた以下の引用に目が釘付けに。

「"語れる"自分は、本当は"被害者"としては軽い存在なのではないか? "ほんとうの被害者"に対して加害者的になってしまっているのでは? と自らを貶めてしまう当事者」

自分が重症児者の親・介護者として何事かを語ることに対して、語ろうとするたびに、私自身の中にいつも立ち現われてくる自問――。

2012/11/18(日) 午後 9:33[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

spitzibaraさん、こんばんは。

お互いの問題の捉え方や基本的な方向性の一致と、アプローチや経験の積み重ねの違いについてのご指摘、同感です。

障害者問題や、支援者・ケアラーへの支援の問題などについて、直接的・経験的な事柄、例えば、いかに孤立無援で支援を得るのが大変か、などのことは、近い経験のある当事者同士でないとうまく伝わらなかったり、話が理解されないことは多々あると思います。

この辺の問題については、spitzibaraさんや、まとめでやり取りしたお母さんの知見や経験について、こちらは話を伺って、学ぶ立場にあり、外野席の観客の位置にある(違う場面では別の問題の当事者であったとしても)という認識です。

そのような当事者の知見や経験から得られたその人なりの対処法や行動の仕方もまた、外部者は基本的に尊重すべきだと思います。

2012/11/19(月) 午前 1:40[ @hijijikiki ]

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しかし、ご指摘のような、「許さない」「自分を許せない」「他者を許せない」の循環・悪循環が生じて、見過ごせない影響があると思われる場合などには、その点を外部からも指摘すること、介入することは必要かと思われます。
但しそれは、当事者の利益を最優先し、目的とするものであることが条件だと思います。

「ケアラーたちの本当の顔」にあるように「自分でも思いがけない時に、気が付いたら、いつのまにかケアラーになっちゃって」、目の前の大変な事態の渦中に巻き込まれて息もつけないような状態の人に、外野席からその大変な事態を軽視するような介入は良くないことは言うまでもないでしょう。
まず第一に、その事態によって自分がつぶれない、潰されないようにすることが最優先であり、そのための対処法もまた、そういう観点から尊重されるべきです。

2012/11/19(月) 午前 1:42[ @hijijikiki ]

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問題は、これらの緊急避難的(と外部からは見える)対応、spitzibaraさんが「自分を持する」と言われたことも、ある場合には含まれると思いますが、を続けることで、当事者本人やその仲間やその周りの人などが、苦しい状態にならないか、ということです。

そこでご指摘の、「自己肯定できていない自分」に気付き、認め、自己肯定していく螺旋プロセス、が重要になってくるのだと思いますし、そのようにspitzibaraさんが考えておられるのはとても納得できます。

ちょっと前に話題になったアダルトチルドレンは、自分の生きづらさを親のせいにするということで、ずいぶん非難されたようです。しかし、当事者にとって、それが理由がわからない生きづらさに理由を与えて、少しでも生きやすくなるなら、外野が過剰に非難するのはどうかと思います。

「とりあえず、社会のせいにしてみる。」という対処法も、同様に非難されがちですが、これも同様に、闇雲に非難するのではなく、その後にどうするか、を見守ることが妥当だと思います。

2012/11/19(月) 午前 1:43[ @hijijikiki ]

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これらの例も、この螺旋プロセスの一部としてあるのかもしれないし、身に降りかかってきた厳しい現実を生き延びるスキル、対処法の一つとして見ることが妥当ではないでしょうか。

以上長々と述べた、当事者のやむを得ない・他にはない対処法に対する理解を前提にした上で、
「自己肯定できないところに追いやっていく社会」の問題を考える、というのが順当で、決してその逆ではないと思います。
と言いながら、知らず知らずのうちに、spitzibaraさんを含め、当事者の方に「社会の問題」を優先するようなことを私が言ってしまっているなら、ご遠慮なく指摘してもらえれば幸いです。
社会は人の生きる場所であって、人が社会のために生きているのではないのですから。

本当に長々と議論にお付き合いいただいてありがとうございました。断片的だった思考が、つながったり、まとまったりしたものがあって、学ぶことが多かったです。意見の一致や違いも含めて、本当に実りのあるやり取りだったと思います。

今後もspitzibaraさんのご経験やご発言、社会に対するご提言をお聞かせいただければと思います。

今後ともよろしくお願いします。

2012/11/19(月) 午前 1:56[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。いつも論点の間を丁寧に説き繋いでくださって、また多くを教えていただき、ありがとうございます。昨日、そちらのツイートで立岩先生と野崎さんの引用を興味深く読ませていただきました。視界が心地よく展望されていく感じがします。

自己肯定に向かう螺旋状のプロセスについては、私もいつもACの問題と繋げて考えているので、またまた「おお!」と思いました。また今の世界のありようについても、しばらく前から「世界が虐待的な親のような場所になっていく」という印象を持ってもいるので、そうしたことを書いてみたエントリーをTBさせてもらいました。

こちらこそ、ありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2012/11/19(月) 午前 8:58[ spi*zi*ar* ]

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 momongazet氏の投稿:

spitzibaraさん、こんにちは。そうですね「今」思っている感情がポジティブでもネガティブでもダウナーでもそれって再び変化していくんですよね。そこだけで切ってしまって結論づけられると困ってしまいます。hijijikikiさんとのやりとりで「許し」について書かれてありましたが私も娘を入学させる前、支援の先生との懇談で「これからはお母さんも少し楽になると思いますよ」と言われたのですが、その時私は「楽になっていいのか?」と思ってすくんでしまいました。まだまだ、これから、やらなければ許されないんじゃないか?これが私の娘への償いじゃないのか?そしてあの時、えっ?と思った自分にもまた驚きました。

2012/11/19(月) 午後 0:28[ momongazet ]

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次の出来事、次の感情、次の問題、次の悩み、本当にぐるぐるぐるぐるらせんは続いていきますね。現実にも心にも。障害のある子供を生まなければそんなことに翻弄されず生きられたのでしょうか?健常の子供だったら親は自分のやりたいことを本当になんでも出来たのでしょうか?ミュウさんを見つめるspitzibaraさんと、きっと私が娘を見るまなざしは同じで、その幸せな感覚は障害を持つ子の親は知っていると思います。その幸せを感じるまでにあちこちから傷つけられたり心身ともヘトヘトに疲弊する経験をしたその先にやっと平穏と共に感じる幸せです。

2012/11/19(月) 午後 0:30[ momongazet ]

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>どんな生き方をして「今ここ」に至ったのであろうと、
私たち、こんなにも愛する娘がいる「おかあさん」なんですよね
>自分自身の人生を生きたい思いをこんなにも捨てがたい私たちだけど、
だからといって私たちが娘を愛していないわけじゃない。

これだなって思うことを、いつも的確な表現で語ってくれるspitzibaraさんの文章が私はとても好きです。

福井公子さんはこちらの新聞でもエッセイを連載されていて、夫からも「この人、いいね。」と読むようにすすめられました。ほどなくしてこちらで紹介されていたのでわぁっと思っていました。教えて下さってありがとうございます。

長々のつぶやき失礼いたしました。

2012/11/19(月) 午後 0:35[ momongazet ]

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 spitzibara氏の投稿:

momongazetさん、あー、そういえば福井さんはそちらの方でしたねー。とっくに読んでおられたんですね。失礼しましたぁ! 来年、「生活書院」から本になるみたいなので、楽しみですね。

やっぱりmomongazetさんも同じような体験をしておられるんですね。私たちに「許されていない」と感じさせているもの、自分でも自分を許せなくしているものの正体は、一体なんなんでしょう?

あちこちから傷つけられたり心身ともヘトヘトに疲弊する経験をしたその先にやっと平穏とともに感じる幸せ……本当に、そうですね。だからこそ、しみじみと深く感じるかけがえのなさであり、そうした繋がりの、ひたひたと心に沁みる幸福ですね。同じ思いを共有してくださる方があると、また一層しみじみ、ひたひたと深まっていくようです。

人の思いは、とどまることなく様々に揺らぎ、陰影を帯びてグラデーションになったり、何色もが複雑に混じり合ったり、決して平板な単色ではないですよね。

2012/11/19(月) 午後 4:39[ spi*zi*ar* ]

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momongazetさん、さっきそちらに伺ったら、体調崩しておられたんですね。そんな時にコメントありがとうございました。

急に寒くなりましたもんねー。どうぞ、お大事に。

2012/11/19(月) 午後 8:36[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

spitzibaraさん、こんばんは。
なんだか過分なおことばをいただき恐縮です。こちらこそ、やり取りを通じて考えを深める機会をもらえて多謝です。

アダルトチルドレン(AC)についてのエントリー「ACからEva Kittayそして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環」
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62226979.html
のご紹介ありがとうございました。
エントリーの内容についてはほぼ同感ですが、Kittay氏の指摘:

「左派は‥福祉の問題を、本質的に経済問題・貧困問題にどう対処するかという問題として捉えるが、右派はそれを社会問題、すなわち家父長制的結婚と市場経済のどちらの支配も拒否する女性のふらちな態度の問題とみなす。」

がちょっと意外に感じました。右派(多分保守派も含まれる)が福祉の問題を

 社会問題 = 女性のふらちな態度の問題

と考えている、とKittay氏は思っている?(前後を読んでない私の読み方が違っているのか?)
元英国首相のサッチャーの発言とされる「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」での"社会"という言葉とずいぶん違っているような。

2012/11/19(月) 午後 10:59[ @hijijikiki ]

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宮地尚子「環状島」のレビューで
「"語れる"自分は、本当は"被害者"としては軽い存在なのではないか? "ほんとうの被害者"に対して加害者的になってしまっているのでは? と自らを貶めてしまう当事者」
というのがあった、とのご指摘について。「犠牲の累進性」という言葉を思い出しました。
4年前に著者にメールで感想を送ったのですが、その一部を引用します:

『 ●<重さ比べ>と「犠牲の累進性」について:
 「犠牲の累進性」とは、「ネオリベ現代生活批判序説」の著者の白石嘉治さんが用いてる用語で、現代思想06年12月号の立岩真也+白石嘉治「自立のために」で
「…大学生なんかよりもフリーターのほうが大変でしょう、いやいやフリーターなんかよりも高齢者で貧しい人たちのほうが大変でしょう、それよりも、それよりも...というような形で、社会的なものがより狭い範囲に縮減されてしまう。p49」
ことです。

2012/11/19(月) 午後 11:00[ @hijijikiki ]

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これは反貧困運動、プレカリアート運動をしている雨宮処凛さんも引用していて、石原都知事と対談したときに「…フリーターがいかに大変かという話しやネットカフェ難民の話をしたら、彼はウガンダの話しを始めたんです。それがまさに犠牲の累進性です。」「「生きづらさ」について」p139-40
(この対談は雨宮さんが石原都知事を論破している"すっげぇー"内容です)。

<重さ比べ>は主に当事者自身が自己(過小)評価に使うのに対して「犠牲の累進性」は強い立場に立つ者が弱い立場に立つ者に向かって用いる言葉であり、それを弱い立場に立つ当事者自身が内面化してしまい、無力感を募らせるという違いはあるかもしれないが、きわめて類似する側面があるように感じられます。

<重さ比べ>にしろ「犠牲の累進性」にしろ、どうしても他人と自分を比べてしまう人間の特性に名前を付けたこと、そしてそれが悪用され、自分の状態を把握し伝えることを妨げて苦しさを増加する要因となることをイシュー化(可視化)したことがとても重要なことだと思います。』

以前の投稿の末尾が欠けてしまったので、再度:
今後ともよろしくお願いします。

2012/11/19(月) 午後 11:02[ @hijijikiki ]

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 momongazet氏の投稿:

すみません、お気遣いありがとうございます。弱っちいのは毎度のことです。

コメント欄でのお二人のやりとりとhijijikikiさんのツイートは勉強になりました。「たたき」の激烈さに辟易していましたがもう一度読んでみようと思いました。福井公子さんは本が出版されるんですね?いや、やっぱり書くべき人はちゃんとそうなるように出来ているんだなー。

>人の思いは、とどまることなく様々に揺らぎ、陰影を帯びてグラデーションに

spitzibaraさんがこうおっしゃるたびに私の目の前にものすごく大きな美しいグラデーションのタペストリーが現れるんですよね。それは色んな糸で織り込まれて(重たいのに)風を受けてはためいてすごく綺麗なんですよ。こういう光景を見させてくれるspitzibaraさんに感謝!です。

2012/11/19(月) 午後 11:34[ momongazrt ]

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 @hijijikikiの投稿:

spitzibaraさん、momongazetさん、まとめ「がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか」と、その続編に、コメント欄の投稿を使わせていただきました。過不足や問題などありましたら、ご指摘下さい。

momongazetさん、拙ツイートを参考にしてもらえて嬉しいです。心や体が弱っているときには、強烈な言葉に傷つきやすいと思うので、お気をつけて(もしも、その言葉が私のものだったら、ご遠慮なくご指摘下さい)。

2012/11/20(火) 午前 2:32[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、早速にまとめてくださって拙著の紹介までしていただき、ありがとうございます。「現代思想」6年12月号、買わなくちゃ。

キテイのその個所は、私自身は「右派は、女さえ黙って担っていればカネを使わず施策を講じなくても解決する問題と考えている」と理解して「社会問題」という言葉は流してしまいました。改めてhijijikikiさんのご指摘から、「社会」というよりも「文化」とか「女の意識」の問題で、経済や政治の問題ではない、ということを言いたかっただけなのかな、と。ただ私も前後をまったく記憶していないのですが。

2012/11/20(火) 午前 8:05[ spi*zi*ar* ]

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momongazetさん、大きくてきれいなタペストリー、私にも見えました! 素敵なビジョンを、ありがとうございます!!

「私らしさ」というのは、意図的につくったり目指して生きたりするような類のものではなくて、目の前の現実を死に物狂いで生きているうちに、そうした小さな積み重ねが知らず知らずのうちにその人の人生のタペストリーとして織りなされていく、そのタペストリーのあり様のことなんだなぁ、と改めて考えさせてもらいました。

2012/11/20(火) 午前 8:14[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

spitzibaraさん、まとめをご覧いただきありがとうございました。

現代思想06年12月号の立岩真也+白石嘉治「自立のために」は、著書だと難しくて読みにくいお二人(失礼!)の考えがわかりやすく語られていて、お奨めです。

キテイの言いたいことの解釈は、同感です。解説ありがとうございます。私が「社会」という言葉にこだわりがあるため引っかかったのかと。

2012/11/20(火) 午後 1:33[ @hijijikiki ]

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 なん氏の投稿:

おひさしぶりです。
犠牲の累進性、社会規範の内面化・・・コメント欄で話されていること、まとめにあったこと、支援学級でまったくそのものの構図を見た気がして、デジャビュ?でした。

支援学級での障害での「ワガママ許されるランキング」的なあの感じ、って
>「許さない」「自分を許せない」「他者を許せない」の循環・悪循環
子ども同士の、生々しさとダイナミックさで、見せつけられた記憶があります。

息子は今、軽度発達障害の子の為の職業訓練校のような所に通学してます。そこでも「お互いの障害を理解しあう」と言うよりは「内在化した社会規範によって相手を責めることが、自分を担保する(もしかしたら唯一と感じている)手段である」かのようなトゲトゲしさを感じることがよくあります。
ネットで攻撃的な姿勢の人を「アスペか?」と揶揄するのがよくありますが、さもありなん、と思える面が私にはあります。

同じことの裏返しが「先手謝罪の術」であったりもします。言い訳としての謝罪を先に用意しておく処世術が日本では有効だったりしますから。

グルグルしてますが、とてもとても、読みごたえがあって心に残るコ

2012/11/20(火) 午後 8:14なん

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切れてしまいました・・・

読みごたえがあって、心に残るコメント欄のやりとりと、まとめ、でした。
読めて嬉しかったです。ありがとうございました。

2012/11/20(火) 午後 8:17なん

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 momongazet氏の投稿:

spitzibaraさん、見えましたか!?死ぬ時まで色を変えながら織られていくタペストリー。私達ってすごいものを作りながら毎日を生きているんですよねぇ。行き詰まった時に(あ、私は今黒い糸の部分だな)って思ったりするとフッと深刻さから開放されるようなイメージセラピー的でもあります。これはspitzibaraさんがそう表現してくれなければ決して見えないものでした。ありがとうございました。

2012/11/20(火) 午後 9:43[ momongazet ]

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hijijikikiさん、お二人の次元の高いやりとりに私のコメントが入るとひゅる~(・ε・)と力が抜けてしまうと思うのですが、まとめに使ってくださってありがとうございます。ツイッターやコメントは本当に言葉だけなのでたった一行でもぼそっと吐き捨てられると心に深く残りますね。読むときも書き込むときも注意深くありたいと思います。「今はシンドイ気分だからそんなふうに表現されるとシンドイよ」と言えるやりとりはいいですね。お心遣いありがとうございました。

それから、ツイッターで@された方は同じ名前のmomongazetですが私とは違う方です。これはyahooのコメントの時に使用している名前で私のツイッター名は別にあります。まぎらわしくてすみません。ツイッターのmomongazetさんは「?」かと思われますので削除、または修正をしていただければと思います。

2012/11/20(火) 午後 9:45[ momongazet ]

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spitzibaraさん、hijijikikiさんへのお返事にこの場を借りさせていただきました。すみません。ありがとうございました。

2012/11/20(火) 午後 9:50[ momongazet ]

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 spitzibara氏の投稿:

なんさん、お久しぶりです。寄っていただいて、ありがとうございます。

なるほど、どういうところにも、そういう構図はあるんですね。本当に何の意味もない連想なんですけど、ふっとネット上で2チャンネル的な人たちが誰かに反論する時の定番口調「~~だろ」のことが頭に浮かびました。言っていることの内容よりも先に、口調で相手に対して上に立って先手をとろうとする、みたいな。私はあれを目にするたびに、この人はまず相手の言うことに脅かされたんだなぁ、それで防衛的になった反射的な反応として、こういう攻撃性や優位性の先取りをやっているんだなぁ、という感じを受けるんですけど。

なんか、あまり関係のない連想で、すみません。私が軽度発達障害のことを分かっていないもので、反応がズレてて申し訳ないです。

2012/11/20(火) 午後 10:24[ spi*zi*ar* ]

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なんさん、前にそちらのツイートで、相手を守ったり相手に学ばせるために壁を作ってやったり規範を設定してやっている人が大人で、自分の都合のための壁や規範を押し付けるのは子どものすることだ、みたいなことをおっしゃっていましたよね(正確な言葉を引用できなくて、すみません)。あれ、すごく共感しました。

で、hijijikikiさんとのやり取りとの関連でそれを思い出したのは、自分が「許さない社会」「自分を許せない」「他者が許せない」の循環の中にいて、自罰と他罰が自分の中でせめぎ合っている人は、そんなふうに大人として他者のための壁や規範を作ってやるだけの余裕がないんじゃないかなぁ、と、ふっと思ったからみたい。

2012/11/20(火) 午後 10:36[ spi*zi*ar* ]

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なんていうのかなぁ。誰かと言葉をやりとりしているように見えて、実は相手と会話しているのでも、そこからものを考えようとしているのでもなくて、自分としか会話していなかったり、もっと言えば、実はそのやりとりを自分を守るための壁を塗り固める作業にしている人もいるみたいな……。まぁ、ある程度は誰でもそういう面があるのかもしれないのですが。

そういうのも結局、「自己肯定できないところに追いやられている人」がすごく増えていて、さらに増えていこうとしている……みたいな。

2012/11/20(火) 午後 10:40[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

なんさん、こんばんは。
拙まとめや、やり取りに関心を持っていただき、ありがとうございました。

ウチの塾に「発達障害」と診断されたり、支援級に行ったり、行きそうな生徒さんがけっこう多いのですが、支援級に行く話がでただけで、からかい、いじめにあって、「他と違う(扱いをされる)自分」ということで傷つき、それに反応して更にいじめられる例がありました。

「支援級(特別支援学級:旧称は特殊学級)」の支援とは何なのか、レッテル貼りをする以上に受けられる支援のメリットが大きいのか?と思ってしまいました。

まとめ「発達障害・アスペルガーへの"支援"とは?相互理解・社会はどこに」http://togetter.com/li/323085に、支援と差別の似ている点、支援の危うさなどに言及しました。
ご興味があればどうぞ。

2012/11/21(水) 午前 1:47[ @hijijikiki ]

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momongazetさん、こんばんは。

「ツイッターやコメントは本当に言葉だけなのでたった一行でもぼそっと吐き捨てられると‥注意深くありたい」>本当にそうですよね。逆に自分がそうしてしまう危険性もあって冷や汗もんのことが(先日、何気ない言葉遣いのつもりが、相手の方がその言葉で嫌な思いをされた経験があって、ツイッターでブロックされてしまいました)。

その辺慎重でありたいですが、何かあったときには、きちんと対応したいものだと思います。

ツイッター間違えのご指摘深謝です。検索したら同じ名前が出てきたので、うっかり間違えて送ってしまった、うっかり者でした。訂正ツイートしました。

今後ともよろしくお願いします。

2012/11/21(水) 午前 1:49[ @hijijikiki ]

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spitzibaraさん、こんばんは。コメント欄をお借りして、momongazetさんや、なんさんともやり取りさせてもらって恐縮です。このような、やり取りの広がりが得られたのは、spitzibaraさんのコメント欄ならではのこと、と思います。ありがとうございました。

「実は相手と会話しているのでも、そこからものを考えようとしているのでもなくて、自分としか会話していなかったり」>この辺の、自分の中の循環、ぐるぐる回りは、ある意味避けられないところがあると思います。
「許さない社会」「自分を許せない」「他者が許せない」の循環、というのも、条件が悪い、支援がない時には悪化しやすいもので、世間で自己責任などを問い始めて、このような循環を更に悪化させていると思います。

これを循環させすぎない、悪循環にしないこと、「回ってるな」と思ったら、回しすぎないようにする(ように支援する「太陽政策」)、ことがよいのでは(ムズイけど)。

アスペルガーの当事者の綾屋紗月氏が「首都高」(首都高速道路、環状線で出口がわかりにくく、ぐるぐる回って出られない)と命名して、対処法を書いてたと思います。

2012/11/21(水) 午前 1:52[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、momongazetさん、なんさん、おはようございます。ツイッターでは複数の方とのやり取りが同時に進行するのは3次元的で頭が混乱していましたが、ブログのコメント欄は2次元的でのんびりしてもいるので、やりとりしながらそれぞれに考えを巡らせるのにはいいのかもしれませんね。

皆さんのおかげで、コメント欄でのやりとりの醍醐味を久しぶりに思い出させてもらいました。ありがとうございました。

2012/11/21(水) 午前 9:04[ spi*zi*ar* ]

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●引用されているspitzibara氏の著書の紹介:
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65479583.html

● 生活書院のHPから引用:

 児玉真美【著】 [新版] 海のいる風景

重症心身障害のある子どもの親であるということ

http://www.seikatsushoin.com/bk/097 uminoirufukei.html

★「重い障害のある子どもの親である」ということと向き合いわが身に引き受けていく過程と、その中での葛藤や危ういクライシスを描き切った珠玉の一冊。待望の新版刊行!

四六判並製  280頁  1680円(税込)  ISBN978-4-903690-97-1 
(書影拡大)
 
 ある日突然に、なんの予備知識も心構えもなくそういう親となり、困惑や自責や不安や傷つきを抱えてオタオタとさまよいながら、「重い障害のある子どもの親である」ということと少しずつ向き合い、それをわが身に引き受けていく過程と、その中でのヒリヒリと痛い葛藤や危ういクライシス――自身の離職、娘を施設に入れる決断、その施設で上層部を相手に一人で挑んだバトル――を描き切った珠玉の一冊。
 誰よりも優秀な娘の代弁者だと信じ疑うことがなかった一方、施設に入れていることの罪悪感を未だに引きずってきた著者が、アシュリー事件と出会うことによって突きつけられた「子の権利と親の権利の相克」を、自分の中の痛みのありかと向き合いながら真摯に論じた「十年の後――新版刊行によせて」を冒頭に加えた、待望の新版刊行。
 

【目次】

十年の後──新版刊行によせて
ケアラー連盟(現・日本ケアラー連盟)設立1周年記念フォーラムにて

プロローグ てっちゃん家(ち)の話
週末の親子
いのち
「不思議の国」
なんか、ヘン
善意は厄介なのだ
田舎の優等生
母子入園
親バカと世間サマ
車椅子入店拒否事件
病院は娑婆にあらず……?
美しいウソ
迷い
決断
子育ての「四大苦」
私はただの無になった
あすなろ療育園
追い詰めるのは誰?
言葉を持たないということ
私は「半人前」でしかない
うちらの子
「受容」は続く
闘い
研修会にて
その夜
気がついたら、いつの間にか

あとがき
新版のためのあとがき