「一年の抱負」をみんなでシェアすれば幸せが生まれるのでは? 20代~40代の男女4人で検証してみた

「本当のシェアとはなにか」真っ向から挑んだ1年間
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「抱負シェア」とは「言うほどでもない気持ちの布教」

さて、本題

ではここで、検証しようと思った内容について振り返ってみたい。

・人のためにと考えることで抱負の実行度が上がるのではないか
・自分の抱負を人が叶えてくれたら人は満足できるものなのか?
・むしろ、「自分の抱負を先に実行されたくない」という思いから自分の抱負達成へのモチベーションが上がるのではないか

…以上、3点である。

「1年間の『抱負シェア』、やってみていかがでしたか?」

「まず私から。なんでもシェアすればいいって安直だよね、って思いました」

「やる気が…でないよね。人の抱負だからって、結構自由に忘れてたわ

「人の抱負を実行できるのか、不安でした。特にプリクラは、健康診断がなければ達成できませんでした」

「ありがとう健康診断、社会保障」

「ただ、自分の中でとどめるべきこともあるなと再確認しました。ノンデリとか」

「僕は、何かに挑戦することは良かったかなと」

「うんうん。もちこがフラッフィ気に入ってくれたの嬉しかったし、男子二人を香水沼に落とせて幸せだった」

「確かに!フラッフィは出会えて良かった」

「僕も絵本を作るにあたり、架空の我が子の教育方針に悩みました」

「最初に『抱負シェア』全否定してごめんじゃん」

「誰かの気持ちに成り代わって、っていう部分は良かった」

これはもしかして…1年かけた布教だったのでは?

「確かに」

面倒なことも多かっただろうが、誰かの希望を叶えるためにその分野の知識を得たり、誰かの気持ちを理解しようとしたり…それはまさに自分の好きな物や趣味など、はっきりとしたコンテンツ化されるほどではない「気持ち」の布教であった。

「私は、表彰されなかったけど、埼玉県に人に目を配る意識の高い人が生まれたのはうれしかった」

「カンタマ君の絵本が読みたくなった」

「こんなことがなければマジックのYouTube見なかったですね」

抱負の達成度が向上したり、誰かが叶えてくれることで満足を得られたとはいいがたい。しかし自分の希望とは違った形でも、各々がそれぞれの解釈で一年間何をしたのか聞くのは本当に楽しい時間であった。

「では、来年も『抱負シェア』やりたいですか?」

「やりたくはないです」

押し着けたくはないけど好きなものを知って欲しい、誰かが私の気持ちになって行動するとどうなるかな、そんな興味のある人は「抱負シェア」を実行してみると、ほんの少し楽しい気分で一年を過ごせるかもしれない。

ただ本当に面倒であるうえ、まじめな人ほど達成できない罪悪感にさいなまれえてしまうので、期待せず楽しむ気持ちが必要だ。

こうならないために、ほどほどの期待で楽しんで
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