真田丸 第28回「受難」長文考察系まとめ

秀次事件の考察まとめを中心に
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丸島和洋 @kazumaru_cf

問題は、秀次の自害を秀吉の命に拠るものではなく、自発的なものとする矢部説の妥当性ですが、2011年から2013年にかけて、複数の論文・著書で矢部説が出されて以後、現在にいたるまで、明確な反論はでていません。この点は、金子論文に記されている通りです。

2016-07-17 21:16:07
丸島和洋 @kazumaru_cf

もっともその過程については諸説ありますが、秀次がかなり精神的に追い詰められていたことはほぼ一致しています。秀吉が秀次に圧力をかけていたという点を強調する藤田説も、矢部説と思われる見解を紹介した上で秀次自害は「もののはずみ的現象である」と結んでおり、積極的否定はしていません。

2016-07-17 21:20:34
丸島和洋 @kazumaru_cf

ただ、金子氏も秀吉が秀次の落ち度を探すようになっていった結果という見通しを示されており、まだ議論の余地は残されています。

2016-07-17 21:21:48
丸島和洋 @kazumaru_cf

「秀次事件」を考える際、私が思い出したのは大学で受けた政治学の講義でして、「人間は、常に合理的な行動を取るとは限らない」というまあ当たり前の話です。この時点で、秀頼は数3歳。「七歳までは神の内」と呼ばれた時代ですから、この時点で秀次の権力を削ぐことは、豊臣政権にとって致命傷です。

2016-07-17 21:24:43
丸島和洋 @kazumaru_cf

したがって、秀吉・秀次ないしは石田三成を初めとした家臣達の誰かが、後から見れば「非合理」としか評価しようのない行動を取ったと考えざるをえません。このうち、三成については、秀次遺臣を引き取っていますので、秀次サイドから恨まれてはいない=無関係という矢部説には説得力があります。

2016-07-17 21:27:01
丸島和洋 @kazumaru_cf

問題は秀吉が暴走したかどうかですが、諸説を踏まえて同時代史料を読み返すと、1)秀吉と秀次の関係が悪化、2)秀次が自発的に出奔、これで世上は安泰になるという見通し、3)秀次謀叛嫌疑の公式表明、4)秀次の高野山蟄居生活規定の提示、5)秀次自害、6)妻子虐殺となります。

2016-07-17 21:29:39
丸島和洋 @kazumaru_cf

問題は3~5までの整合性をどうとるかですが、まず切腹命令は明白な偽文書ですので、後付けと判断できます。そうすると、秀次の自発的出奔が秀吉に追い詰められた結果か、彼が恐慌をきたした結果かというのが次の論点になります。当時の公家達は秀次出奔で政権安定とみています。

2016-07-17 21:32:16
丸島和洋 @kazumaru_cf

したがって、秀吉と秀次の関係が悪化していたことは間違いないでしょう。当時の日記にも「御不和」とあります。

2016-07-17 21:33:10
丸島和洋 @kazumaru_cf

問題は、秀次出奔を秀吉サイドがどう受け止めたかで、ドラマで描かれたように「秀吉の命令で行われた形にしなければ、豊臣政権の威光は失墜する」という議論は妥当性があります。

2016-07-17 21:35:42
丸島和洋 @kazumaru_cf

秀次の出奔のきっかけそのものが、「謀叛の嫌疑」への弁明を門前払いされたことにありますから、公式見解としては「謀叛の疑いで蟄居謹慎」という形になったという議論も妥当性をおぼえます。なお、実際には剃髪しての高野山行きでしたので、刀・脇指を帯びることを禁じようとしていました。

2016-07-17 21:37:37
丸島和洋 @kazumaru_cf

これに対する秀次の反応が、謀叛嫌疑が晴れないことへの抗議の「憤死」という形での自害となったというのが矢部説の骨子となります。ただし、矢部氏は福島正則が秀次を自害に誘導したとしていますが、私はこれには賛同しません。この点は、そのうち紙媒体の原稿でまとめる機会を頂いています。

2016-07-17 21:39:45
丸島和洋 @kazumaru_cf

その後の秀吉による妻子皆殺しですが(実際には池田輝政妹は助命されており、例外がありました)、ドラマでは「温情を裏切られた権力者の怒り」という描写ですが、「やむを得ない」こととなります。なぜならば、秀次は「謀叛人」として高野山に追放されたことになっているからです。

2016-07-17 21:42:34
丸島和洋 @kazumaru_cf

豊臣政権としては、1)秀次出奔を秀吉の命令にするという政治工作を行うために、「謀叛嫌疑による蟄居とした」、2)しかし「謀叛人」秀次が切腹してしまった、3)秀吉の命令による「謀叛人」切腹と公表しなければならない、4)「謀叛人」である以上、一族皆殺しにせざるを得ない、という理屈です。

2016-07-17 21:45:16
丸島和洋 @kazumaru_cf

この流れを理解した上で翻案し、「好意のすれ違い」という話に仕立て上げ、「一度すれ違ったが再び結び合った」真田兄弟と対比した三谷脚本にはうならされた次第です。

2016-07-17 21:48:46
丸島和洋 @kazumaru_cf

処刑された秀次の妻子についてですが、同時代の史料をつきあわせると妻は30人以上、子供は3人+αと多少揺れがあります。ただ、子供は御千様2歳、御百様2歳、御宮様1歳(処刑前日に出産・・・)とあり、乳児ばかりのようです。

2016-07-17 21:54:16
丸島和洋 @kazumaru_cf

したがって、1590年生まれ、享年6と伝わる仙千代丸は、享年2歳の御千との混同ではないかなぁと考えています。

2016-07-17 21:58:52
丸島和洋 @kazumaru_cf

問題は、信繁側室となった隆清院(たかのモデル)で、彼女の娘とされる「御田」がたしかに岩城宣隆に嫁いでいるのですが、私の力不足で、隆清院自身に関しては、確実な史料的裏付けを得られませんでした。たかの描写が、三谷さんのオリジナルであることは、「紀行」でご説明できたかと思います。

2016-07-17 22:01:14
丸島和洋 @kazumaru_cf

なお秀次とキリスト教の関係ですが、切支丹に好意的であり、興味をもっていたが、切支丹にはなっていない、というのが個人的見解です。ドラマでも、隠し部屋に十字架はありましたが、秀次自身は「マリア像をみると心が穏やかになる」という程度の描写であったかと思います。

2016-07-17 22:04:12
丸島和洋 @kazumaru_cf

実は真田家中には、切支丹が多かったようで、結果論ですが、微妙に話がリンクすることとなりました。

2016-07-17 22:05:00
丸島和洋 @kazumaru_cf

補足。大谷吉継の病気は、ハンセン氏病とは私は認識していません。ドラマでは、概ね史料からわかる症状を描く形となります。「微熱が続き」というのは、単に体調が悪い表現です。これは、大谷吉継の病気がハンセン氏病であったとは考えにくいという、純粋な考証の結果と思ってください。

2016-07-17 22:10:18
丸島和洋 @kazumaru_cf

私自身がNHKサイドにお示しした考証内容は、『真田四代と信繁』208~211頁、および『真田一族と家臣団のすべて』の「竹林院殿」の項目で記していますので、そちらをご参照ください。

2016-07-17 22:13:05
丸島和洋 @kazumaru_cf

秀次家老の熊谷直之らが秀次自害前に、切腹させられているのは、関白に対する家老としての職務不行き届き=出奔を防げなかった責任、および「謀叛の疑い」という公式表明のすりあわせと解釈しています。木村重茲が秀次自害後に剃髪したところ、結局切腹させられたのも、「責任」の認識の相違でしょう。

2016-07-17 22:23:32
丸島和洋 @kazumaru_cf

そもそも秀吉は秀次に何らかの「権限を与えた」ことはないのであって(全権は秀吉が掌握している)、この時点の秀次が秀頼の障害になるという発想自体が、どうしても違和感をぬぐえないのです。

2016-07-17 22:26:27
丸島和洋 @kazumaru_cf

秀次が自害した高野山青巌寺は、もとは剃髪寺といいまして、秀吉が建立した大政所の菩提所です。豊臣家の高野山における菩提所となっていました。明治に入り、高野山の組織が再編された際、この青巌寺と興山寺を合併されてできたのが、現在の金剛峯寺にあたります。

2016-07-17 23:03:37
丸島和洋 @kazumaru_cf

この点がややこしいのですが、近世以前の高野山には物理的な意味での寺としての「本山」がなく、子院(宿坊)の合議集団、つまり惣寺を「金剛峯寺」と呼び、これが「本山」の役割を果たしていました。

2016-07-17 23:05:35
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