- ichi_branch
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「……お話はわかりました。それでは、行方不明ということで受け取っておきますね」 お気を落とさず、と年嵩の警官は両親に穏やかな声で告げる。マツゾウもマツヨも静かにうなずくだけで、それ以上反応を示さなかった。 おそまつは立ちあがると、ふたりの背中にそっと手を添える。
2016-08-22 01:25:03「……父さん、母さん、帰ろう」 そうして七人は、次男の欠けた家に帰っていった。道すがら、誰一人として口をきく者はなく、鮮やかな夕日が、ただ長く影を伸ばしていた。 それから一年と経たず、むつご達は全員就職先を決めていった。それまでのモラトリアムがまるで嘘のようだった。
2016-08-22 01:29:08おそまつは営業。ちょろまつは事務員。市松は水族館の清掃員。じゅうしまつは工場でのアルバイト。椴松はカフェに。いずれも海から近い職場だ。 そうやって働いて得た金で、五人は休みの日、よく海へ出かけた。近い海から、遠くの沖縄や北海道まで。 といっても遊ぶ訳ではなかった。
2016-08-22 01:34:26五人はただひたすらに海を眺めている。朝から、夜になって海面が見えなくなるまでずっと。軽口をたたき合っているので、傍目には単に遊びに来ているように見えただろうが、彼らはあの日人魚になってしまった兄弟を探し続けていた。 鮫になったとでかぱんは言っていた。ならきっと生きている。
2016-08-22 01:38:53海の中で鮫は弱い生物ではないに違いない。それだけが頼みの綱だった。 「やっぱり唐松兄さん、今でも肉が好きなのかな?」 ぱしゃん、と波を蹴りながら椴松が言う。 「鮫は肉食だからそうじゃねえの?」 とおそまつが言えば 「まあ、あいつが魚好きになるとかちょっと考えられないよね」
2016-08-22 01:42:04そう、ちょろまつが笑う。 「たはー、唐揚げたくさん用意しまっしょい!」 じゅうしまつが勢い込んで言い、 「……」 市松は無言で砂浜に小さく文字を書く。 帰って来い クソ松 それを見て兄弟たちはけらけらと笑った。 「素直じゃねえなあ~」 おそまつが濡れた手で市松の髪を
2016-08-22 01:47:31かき混ぜた。 そんな日々が二年ばかり続き――すっかり日常の一部となったところで、ひとつのニュースが飛び込んできた。 『人魚捕獲』。 人魚自体は、実のところそう珍しいものでもない。ただ飼育が難しく、知能はあるが意思の疎通は極めて困難。見た目が人間に酷似しているため、倫理がどうの
2016-08-22 01:51:54と各種団体がうるさい。そういう生物だった。解剖調査なども見た目のせいで滅多にできず、生態系も謎に包まれている。 おそまつたちも何度か海で人魚を見かけていて、その度に「うちのバカ次男見かけたらよろしく」などと冗談交じりに声をかけていたのだが。そのいずれも次男ではなかった。
2016-08-22 01:55:51そしてその捕まった人魚は、捕獲場所からほど近い水族館で飼育されることとなり――そしてそこは市松の職場だった。 人魚が運ばれて来るらしい、という話は市松の耳に届いていたが、あまり関心を持たなかった。そういうことは時々あったし、そもそも飼育員ですらない、単なる館内清掃員の市松には
2016-08-22 01:58:40あまり関係のある話ではない。せいぜいディスプレイなどが少し変わる程度のことだ。 人魚の搬入は深夜に行われ、水槽は館内の大水槽――イルカなどと一緒のところになったらしい。 早朝、ふうんと市松はその伝達事項に目を通し、掃除を開始する。ゴミを拾って掃き掃除をし、水槽のガラスを磨いて――
2016-08-22 02:03:32件の大水槽の前で、その足が止まった。視線の先では、少し怯えた様子で岩陰に隠れる人魚。その顔は水槽で泳ぐイルカ達を見ており、市松からは良く見えない。けれど、あの背恰好には酷く見覚えがあった。 逸る鼓動を抑えて、いけないことだとはわかりながらも、市松は箒の柄で軽く水槽のガラスを叩く。
2016-08-22 02:06:54弾かれたように、人魚がこちらを向いた。視線がかち合う。凛々しい眉、髪はだいぶ伸びて背中の半ばまである。身体には傷が幾つか走っていて、ヒレも少し欠けている。 けれど、その人魚は紛れもなく、あの日消えた次男だった。 「から……ま、つ」 掠れた声が漏れる。人魚は小さく首を傾げた。
2016-08-22 02:10:50市松は掃除用具を放り出して水槽に貼りつく。無我夢中で呼びかけた。 「唐松、なあ、おまえ唐松なんだろ……!? なあ、返事しろよ、おいっ!」 しかし人魚は――唐松は訳がわからない、というように首を傾げるだけだった。 記憶がなくなる、というでかぱんと唐松の言葉が思い起こされる。
2016-08-22 02:13:58ぼろぼろと市松の瞳から涙が落ちる。鼻水まで出てきたのを啜って、それでもぼやけた視界の中、唐松を見つめ続ける。 不意に、唐松が岩陰から出てきて市松の前までゆっくり泳いできた。驚いて見ていると、困ったように眉を下げて、手を伸ばして来ようとする。しかしその手はガラスに弾かれた。
2016-08-22 02:17:06唐松は水かきのついた手でぺたぺたとガラスに触れ、その手が市松に届かないことに気が付いたらしい。小首を傾げて、自分の目元を拭う動作をしてみせる。 しゃくり上げながらもその動作の通りに市松が自身の涙を拭うと、ぱっと笑顔を浮かべた。 昔と変わらないその笑顔に、また涙が出てくる。
2016-08-22 02:21:31途端にまたおろおろとし出した唐松は、市松が泣き止むまでずっと水槽のそこから動かずにいて――忘れていても唐松は唐松のままなのだと、市松はぼんやりと思った。
2016-08-22 02:24:22「……おはよう唐松」 そう声をかけると、既にガラスの向こうに居た唐松が水中で宙返りをした。市松は静かに笑ってガラスに水槽の表面に手を這わせる。すると唐松も同じようにしてきた。 ――わずか一分。 そのままの姿勢で目を閉じて、市松は動かなくなる。
2016-08-24 01:45:35そうして一分経つと同時にゆっくりと目を開けた。さらりとガラスを撫でて、掃除を始める。その様子を興味深そうに眺めていた唐松が、ちょいちょいとどこかを指でさした。 見れば、小さな紙屑が落ちている。 「……ありがと」 唐松はへらっと笑って繰り返し宙返りをする。
2016-08-24 01:48:17その様子を微かな笑みを浮かべて眺めながら大水槽の前の掃除を終えて、市松は掃除用具を抱えた。 「また来るから」 どことなく寂しそうにする唐松に軽く手を振ってやって市松はそこを後にし、次の掃除場所へと足を向けた。 「ちーっす唐松ぅ、元気してた?」 おそまつが軽い調子で言う。
2016-08-24 01:52:19「唐松兄さん、おはよ」 「唐松おはよう」 「にーさーん!」 他の兄弟達も勢ぞろいして、わずかばかり人足が途切れるタイミングで口々に声を掛ける。すると唐松はにこにこと嬉しそうに笑った。 唐松を見つけてからというもの、兄弟たちは足繁く水族館に通うようになった。
2016-08-24 01:56:07海に行くより金かからなくていいな、などとおそまつはいつも嘯くが、そんなはずがない。入館料に交通費、昼食代などを入れればそれなりにかかってしまうし、毎週どころか時間が空く限り通っているのだから、そう大して変わりはしないだろう。 それでも誰一人、文句は言わなかった。
2016-08-24 01:59:48交流は人の切れた隙に一言、二言。それくらいが精いっぱいだったが、そんなものでも唐松はきちんと聞きつけては嬉しそうに笑い、得意の宙返りを披露してくれた。鮫は聴覚に優れるというから、そのせいかも知れない。 けれどその度に、皆痛みをこらえるような、泣きそうな表情をした。
2016-08-24 02:04:44――おまえら、少しは自分たちのしたことを省みるといいよん だよーんに言われた言葉を、あれから兄弟たちは片時も忘れたことがなかった。誘拐された次男を助けに行かず、梨にかまけ――そして火あぶりにされているにも関わらずデリバリーコントと勘違いして物を投げ、殺しかけた。いや、殺した。
2016-08-24 02:08:24それまでの唐松への扱いも酷いものだったが、あれがとどめになってしまったことは間違いないだろうというのが結論だった。 人魚になってしまうくらい、絶望したのだろうと思うと、しばらく夜も眠れなくなった。 後悔してもしきれない、苦くて痛い記憶。その結果が目の前にいる。
2016-08-24 02:14:00はじめ、市松から唐松が見つかったと知らされた五人は話し合いをし、このことは両親に言わないことに決めた。 その理由は、あまりに荒唐無稽で、まず信じてもらえないだろうと思ったことがひとつ。 ――そして、人魚になってしまった唐松は、兄弟たちのことをまるきり覚えていないこと。
2016-08-24 02:17:53