クルーグマンの論文を内生的貨幣(信用貨幣)で考えてみると

金融政策と財政政策を信用貨幣を通じて再定義すると、クルーグマン論文の含意も変わってくる。
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望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

今思うと、クルーグマンの理論がおかしかったのは、マネーサプライが中央銀行にとって操作可能だという誤った仮定を置いていたことにあるのだろう。 マネーサプライの直接の発行体は、銀行(と借入者)であって、中央銀行ではない、ということを前提におくと議論ががわりと変わる。

2016-10-14 12:23:34
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

クルーグマンは論文で、「中央銀行が今のMSを弄ることの無意味さ」から「将来のMSを扱う必要性」を論じるのだが、そもそも現在のMSを弄ることすら出来ないのであって、最初から議論が無茶苦茶。 MSに直接アクセスできるのは財政政策なので、彼の理論は財政政策にしか使えなくなる。

2016-10-14 12:26:32
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

ただ、正金利経済に戻って、MSをベースマネー量が「制約」することが可能になる場合は、中央銀行のスタンスも重要にはなってくる。この意味で、中央銀行のMS"許容量"の設定は重要で、その面でのみ所謂リフレ派的政策(インフレ目標の設定とそれに整合的な緩和)は肯定できる。

2016-10-14 12:30:22
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

裏を返せば、正金利経済(流動性の罠脱却)を迎えるまでは、中央銀行がMSを直接操作できない(財政政策が不可欠)という前提で考える必要がある。 その意味で「今のMSよりも将来のMSが重要」という含意は、「今財政出動しても、反動引き締め予想があったら無意味」という代物になってくる。

2016-10-14 12:37:45
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

となると、PB黒字化目標というのは、将来のマネーサプライの水準予想を過小にするので、PB黒字化目標が破棄されるか、形骸化するまでは、どんなに財政出動をしても無駄になるということ。 尤も、積極財政それ自体がPB目標を形骸化(を予想)させる効果もあるので、一概には言えない。

2016-10-14 12:44:17