物語論・キャラクター論に関する一連の論考
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「物語論・キャラクター論に関する一連の論考」をトゥギャりました。 http://togetter.com/li/103913
2011-02-21 23:30:56読んでる。交じればよかった。 RT @helpline: トゥギャッター「物語論・キャラクター論に関する一連の論考」 http://bit.ly/fIfdzC 昨夜はこんな感じの議論をやってました。
2011-02-22 00:22:46物語を文学的視点でみるか社会学的視点でみるかということなのだろうな。そしてガチガチの文学的視点でライトノベルをみるとそこには価値が見出されないが、社会学的視点で読み解くと意味があるということなんじゃないだろうか。でも、その社会学的視点って文学的視点のなかに含まれてる。
2011-02-22 00:37:52だからわざわざ社会学的視点において物語に価値があると言わなくとも、文学的視点もそれは認めている。物語が面白ければ文学ではひとつの正解だ。ただしデーターベースを参照しただけのキャラクター小説に関していえば(僕の考える)文学的視点では価値が見出せない。
2011-02-22 00:39:16@helpline このタイミングでどう入ったらいいか、難しいとこですね。個人的には大塚のいう「まんが/アニメ的リアリズム」には2パターンあると考えていて、つまり「記号的身体による逆説的リアリズム」と「まんが/アニメを参照枠として成立するリアリズム」なんですが。
2011-02-22 00:51:10@helpline 前者は「まんが/アニメの記号的身体では本来描きえないものを描くという逆説を経た自然主義的(と言っていいかは微妙ですが)リアリズム」であり、後者はキャラクター小説などにおけるまんが/アニメを参照項とした表現の持つリアリズムで、議論の流れ的には後者が重要な気が。
2011-02-22 00:54:50@helpline 要するに、マンガやアニメ、ゲームと言ったメディアが物語を生産してゆくための最大のリソースのひとつになっている、という状況があって「データベース消費」に関しても、ここがかなり重要だと思います。「想像力の環境」が物語生産(解釈も含めた)を規定している。
2011-02-22 01:06:59@iwa_jose ぼくが大塚を読み返す必要がありそうな気がしてるんですが、物語を生産するリソースとしての「まんが/アニメ的リアリズム」って、どんなものを指すのでしょうか? キャラクターのデータベースですか?
2011-02-22 01:16:52@helpline 東風にいえばそうだと思いますが、自然主義が現実を参照し代理/表象するものであるのに対し、ある種のラノベ等はアニメやゲームを参照し代理/表象している、というか、そういうものを「キャラクター小説」としていて、新井素子あたりに起源を求めてます。
2011-02-22 01:24:44@helpline 要するに、「現実っぽさ」を目指すのではなく、端から「まんが/アニメっぽさ」を目指すような小説 言えるでしょうか。これが特別な意味を持ちうるのは、大塚の文脈ではまんが/アニメは本質的に「現実」から切断されている「非リアリズム」的なものだからです。
2011-02-22 01:27:43@helpline 『キャラクター小説のつくりかた』が手元にないので、若干自分の解釈が入りすぎているかもしれませんが、現実的にアニメやマンガが想像力のリソースとして大きいものになっているというのは事実だと思います。ある面では現実を解釈する枠組みにもマンガ/アニメが入り込んでいる。
2011-02-22 01:31:21@hondeju こんばんは。よろしくお願いします。「半分読み切った」は『ゲーム的リアリズムの誕生』です。読みながら疑問等々をツイートしているので誤解や疑問の解がその先に書かれていることも多く読みにくかったら申し訳ありません。
2011-02-22 01:36:39@iwa_jose なるほど、腑に落ちてきました。ただ、なんといえばいいのか……ラテン文学でもドストエフスキーでもいいのですが、ある種非リアリズム的な小説を文学/物語の醍醐味として受け止めてきた文学読者には、そこでの線引きが納得しかねるところがあるのかなと。
2011-02-22 01:38:40@hondeju 一連のツイートのおかげで何が話されいるのかだいぶわかるようになりました。ありがとうございます。正確には"二次創作"的欲求は文学的価値は乏しいという認識です。より正確にいえば「少なくとも僕は認めない」ですが。
2011-02-22 01:39:32@helpline データベース消費自体が目的化してストーリーがどうでもよくなっているか、というと現実的にはそうでないですが、データベース消費的なリテラシーがなければ、ストーリーを読み取ることが難しいのであって、「萌え要素」がもはや基本的な語彙になってるようなジャンルがある。
2011-02-22 01:42:16@hondeju なるほど、大きな物語、第三の審級、大文字の他者は違うのですね。大澤真幸、ラカンともに代表とされる著作を読んでいないので概要のみの理解でそれぞれを精査できていませんでした。
2011-02-22 01:42:57@hondeju ちなみに誤解のきっかけと思われる東さんの発言をみつけました。「…-大澤さんの言葉で言えば「第三者の審級」、僕の言葉で言えば「大きな物語」、ジャック・ラカンの言葉でいえば「大文字の他者」-が凋落していて…」『自由を考える』
2011-02-22 01:45:36@helpline フィクションをリソースとして紡がれるフィクションというのは、これまでもずっとあったわけで、文学=自然主義的リアリズム(この言葉自体どうなの?という感じですが)と一括りにした上で、ラノベが方法的に新しいと言うのは強引ですよね。語彙が変わったんだと思います。
2011-02-22 01:49:59@hondeju あのトゥギャッターをみると恥ずかしくなるのですが、僕はわりと僕の思考順路を気に入ってるのでそういっていただけると嬉しいです。東さん同様、僕もまるで全ての二次創作に価値がないといってしまっているようにみえますね。自分の欲望を体現するための二次創作に関して、です。
2011-02-22 01:50:17@helpline ただ、この語彙の更新は、かなり決定的な意味を持っていて、まず活字メディアとマンガ/アニメetcという秩序が無意味化してること、オリジナル自体が、想像力のリソースとして二次的な消費の語彙(要するに萌え)を用いるようになちゃってる、という点がポストモダンなのかも
2011-02-22 01:56:17@hondeju なるほど…と言えるほど理解できてないのですが、どことなくわかったような気がします。『自由を考える』でも彼らの主張の違いは確かに言及されていた。斎藤環経由のジジェク経由のラカンすら完全に理解できなかったのでかなりあやふやです。確認します。
2011-02-22 02:04:28@helpline 発端となった@no_numさんのツイートで「物語が描かれることで登場人物に人間性のようなものが染み込む」とありましたが、これはその通りだと思います。創作の過程においてはともかく、享受のレベルにおいては物語の中でしかキャラクターは立ち上がってこない。
2011-02-22 02:10:10