物語論・キャラクター論に関する一連の論考
- nycity1022
- 10080
- 0
- 18
- 0
さて、僕をきっかけに始まったとあるやりとり(http://bit.ly/hwETH1)について、僕なりの外枠を呟いてみようと思います。具体性や信頼性はかけるかもしれないけれど、ぼんやりと感じているものをまず言葉にしてみたい。本当は、まずそこからはじめるべきだったのだろうけれど。
2011-02-23 15:43:07僕は物語が好きです。その物語が一体なんであるのか未だにわからないけれど、漠然と考える僕なりの「物語」の定義は、設定やキャラクターの集まり、あるいは計算尽くされて出来たストーリーではなく、1+1=が2ではない、書かれているもの以上のことがそこにあるもののことをさしています。
2011-02-23 15:44:59それは決して「想像力」といった使い勝手のいい言葉で表現できるものではない。無限に想像できてしまう物語は何も語っていないに等しい。そうではなくて、理解しきれないけれど確かな存在を感じる何かのことを言っています。実感としてはあるけれど、どうしてもそれをうまく言葉にできない。
2011-02-23 15:47:07そしてその「物語」を表現する方法として最も好きな形式は小説という表現方法です。古くから慣れ親しんできたのもあるし、僕にとってちょうどいい情報量なのだろうと思います。映画にも「物語」を感じるものがありますし、もちろんゲームや、もしかしたら料理にだってあるのかもしれない。
2011-02-23 15:48:40「物語」の表現方法として小説が最も優れているというわけではない。ただ僕が好きなのが小説というだけの話です。そして僕は小説が好きだから、どうしても小説の側についてしまいます。それはとても大切なことだと思う。
2011-02-23 15:50:25小説にもたくさんの表現方法がある。エンタメと呼ばれるものや歴史小説と呼ばれるもの純文学、エンタメ、ラノベ…そういったジャンルのわけかたは、個人が自分の好みである小説を触れるために便利なだけであって、決してそれらの間に優劣があるわけではない。
2011-02-23 15:52:08しかし、それぞれのジャンルにとっての魅力の基準はある。他ジャンルと共有する部分もあれば特有のものもある。具体的に言えないのが心苦しいですが、例えば恋愛小説と呼ばれる小説にSF的要素がないと批判するのはおかしいと僕は思う。
2011-02-23 15:55:44それら個々の魅力はさておいて、僕はそういった小説のなかで「物語」を感じるものを特に好きなんだろうと思っています。伊藤計劃『ハーモニー』はとても素晴らしい小説ですが、「物語」の視点で言えばミシェル・ウエルベック『素粒子』のほうが素晴らしいと思う。
2011-02-23 16:00:56東浩紀さんの『動物化するポストモダン』を読んだとき、彼はきっとラノベが必要以上に虐げられている状態を改善するのを目的としていたところがあるのだろうと思っています。文壇がどういったものなのか僕はわかりませんが、「文学」の基準でいえばラノベは小馬鹿にされていたのだろうと想像できる。
2011-02-23 16:02:55ここからが僕の混乱のもとだったのですが、まず彼は社会がどのように変化しているのかを書いている。ポストモダンの時代、「大きな物語」(社会が共有しているイデオロギー)は凋落しており、人々は「大きな物語」の部分である物語(「物語」ではありません)という捉え方をしなくなった。
2011-02-23 16:09:35そうではなく設定や様々な要素の集積であるデータベースの組み合わせによる物語という捉え方をする。それが二次創作や似通った小説がうみだされる要因である。とても乱暴なまとめですが僕はそのように読みました。ただ、僕はあまりこういった本に触れていないので、正直理解しきれていません。
2011-02-23 16:11:20それを読んだときに、僕は「データベースを基にした小説」を好ましく思えませんでした。それは「物語」もないし、もしかしたら物語である必要もないのではないか。数字やグラフで表現されたデータベースを手に入れて、自らの欲望通りに創作すればいい。
2011-02-23 16:13:29でも、じゃあいったい何処に「データベース」を基にしているかどうかの境界線が引かれているんだろうか。それがわからなければ、僕の好き嫌いの境界もうまく見えてこないのではないだろうかと思いました。本来なら見えてこなくてもいいと思うんです。個人で触れているのだから、感覚ですませていい。
2011-02-23 16:15:10でもやはり、そういった小説を拒む理由が欲しかった。それはそれらを貶めたい、僕の好みに対してそれらに価値がないということを言いたいのではなく、読まない正当性のようなもの、確かさを欲しかったからです。
2011-02-23 16:16:01それがtogetterにまとめられた一連のツイートの始まりの部分にあたります。本当はもっと前からああいったことを呟いていたような記憶があるので、もっと昔から感じていたのだろうと思います。
2011-02-23 16:17:42具体的にいえば好みでないものはライトノベルと呼ばれる小説で、僕はいままでラノベを読んでこなかった。ひとつには偏見がありました。平易な文体やページに挟まれる絵などへの抵抗。もちろんこれも好みです。悪いとは思ってない。ただ触れる前から嫌悪するのは間違いだと思っています。
2011-02-23 16:19:24ですのでラノベについて書くとき、僕はどうしても印象でしか語れません。そしてラノベについて、キャラクターが表立っている小説だという印象がある。絵がついているのも要因かと思いますが、キャラクターばかりが語られる小説というのはなかなか珍しいのではないでしょうか。
2011-02-23 16:22:28もちろん、そういった小説もあります。小説の中にでてくる登場人物と同化することは僕もあります。でもそれは物語のなかでの彼への同調であって、物語から切り離された彼ではない。物語がなければいけない。
2011-02-23 16:24:12あるいは『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンような、一人称でさらにもはやそれが定型化された人間性をもつものは物語から切り離されて存在するのかもしれません。ただしその場合、ホールデン自体がもはや物語なのではないでしょうか。
2011-02-23 16:25:31物語によってキャラクターに人間性が染み込む。物語から切り離されたキャラクターは、物語とは無関係の存在になる。それなのに、キャラクターによってうみだされているような物語があるように感じられる。
2011-02-23 16:26:46それを新城カズマさんもおっしゃられているようです。「ドラマの結末から人物が規定されるのではなく、キャラクターの性質がドラマ(可能性の束)に優先してゆく」小説がキャラクターの媒体になっている。「物語」の媒体ではない。
2011-02-23 16:32:49繰り返しますが僕はそれを好みません。小説がキャラクターの媒体であってはならないとは思いませんが読みたいとは思えないし、どこに価値があるのかをうまく見出すことが出来ない。
2011-02-23 16:37:09環境分析とは「…自然主義的な素朴な読解と異なり、物語と現実のあいだに環境の効果を挟みこんで作品を読解するような」分析のことを指すようです。自然主義的読解は「文芸評論の主流は自然主義的読解である。自然主義的な読解は、物語と現実を対応させる。」
2011-02-23 16:41:46その意味は「自然主義的には単なるファンタジーで、荒唐無稽な幻想にすぎないキャラクター小説のなかに、まったく別のメッセージを読み取ることが可能になる」とおっしゃられてる。
2011-02-23 16:43:54