物語論・キャラクター論に関する一連の論考

@no_num さんの疑問を皮切りに,@helpline @s_mirai @nycity1022 が自然に集まって行った物語論・キャラクター論に関する一連のツイートをまとめました.(関係ありそうなツイートを時系列順に並べただけです.) @hondeju さんも参加されていましたが,TLが非公開なため,このまとめには入っていません.
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. @numnumednumed

そして桜坂洋さんの『All You Need Is Kill』を環境分析的に読解されている。詳しくは省略しますが、この小説は主人公をメタ物語的に描いているとある。主人公がある意味で読者と同じ視点で物語のなかにいる。

2011-02-23 16:52:05
. @numnumednumed

僕は、最近ラノベを頻繁に読む、かなり好みのあった友人とよく話をするのですが、ラノベにもやはり優れたものがあると彼は言っています。彼にとって優れているのか、彼の考える僕の好みにあっているということなのかはわかりませんが、話を聞く限り確かに面白そうなものはある。

2011-02-23 16:53:30
. @numnumednumed

そのなかで『All YOU』を僕が読むかはわかりませんが、少なくとも環境分析的読解で読むのであれば、これは確かにおもしろそうです。「物語」があるかはわかりませんが、キャラクターが戯れているだけのキャラクターのためだけの小説ではない。

2011-02-23 16:54:23
. @numnumednumed

『All You』がライトノベルであるのならば、ラノベにも少なくとも僕の好みにあった小説はあることになる。だから決してラノベに対して嫌悪感があるのではない。キャラクター小説に対する嫌悪感がある。このキャラクター小説が大塚英志の「キャラクター小説」と定義が同じかはわかりません。

2011-02-23 16:56:23
. @numnumednumed

しかし、それは自然主義的読解ではないにせよ、文学でもそういった視線は設けられているように思うんです。文壇や批評がどういった歴史をもっているのか僕はわかりません。だから稀なのかもしれない。しかしそういった小説も、そして批評も僕は読んだことがある。

2011-02-23 16:57:26
. @numnumednumed

メタ物語とは「物語についての物語」なのだと思います。『All You』の場合は「ゲーム的物語についての物語」なのだと思います。「物語についての物語」ならばアメリカの作家であるポール・オースターの「ニューヨーク三部作」を最初に思い浮かべます。

2011-02-23 16:59:14
. @numnumednumed

「ニューヨーク三部作」とは『City of Glass』『Ghosts』『The Locked Room』の三作のことで、これらは全て主人公が「物語を書くことについて」の物語のなかにいる。そしてそれは僕の好きな批評家である三浦雅士さんもそういったことを書かれていた。

2011-02-23 17:01:28
. @numnumednumed

だから決してラノベが文学(いったいなにを文学と呼ぶのか僕はわかりませんが)の中で劣っているものだとは思わない。東浩紀さんが『ゲーリア』を書いたのは「ラノベは決して劣っていないのだよ、こういう見方をすれば面白いのだよ」と言いたかったからではないでしょうか。

2011-02-23 17:02:44
. @numnumednumed

残念ながら、僕はまだ『ゲーリア』を読み切っていないのでとても無責任な発言です。でも最初に書いた通りこれはぼんやりと感じているものを言葉にするために呟いています。そもそもtogetterも進行形の疑問に応答していただいたことがきっかけではじまったものです。

2011-02-23 17:04:01
. @numnumednumed

今のところ僕が考えたのはここまでです。『動ポモ』『ゲーリア』のなかで東さんは「大きな物語」という言葉を軸のひとつにつかっていらっしゃる。しかし僕は「物語」に関していえば「大きな物語」があろうがなかろうが、完全に形を変えてしまうほどの影響はないと思っています。

2011-02-23 17:05:58
. @numnumednumed

「大きな物語」の凋落は社会現象です。そして社会現象は、社会にあらゆる影響を与える。あるいは様々な影響によって生まれた新しい社会学的視点が社会のみかたをかえているのかもしれない。そのなかに物語も含まれている。だからこうした見方が無効だとは思わない。視点の切り替えでしかない。

2011-02-23 17:08:14
. @numnumednumed

小説の形態はかわっていくかもしれない。「物語」という性質は変わっていかない。僕はそのように思っています。たぶん社会学的視点での考察より、文学的視点のほうが僕にとって身近なものなのだろうと思います。そしてその文学的視点を豊かにするために社会学とふれている。

2011-02-23 17:09:22
. @numnumednumed

そもそも僕が文学を好む理由には、やはり僕の僕自身への意識というものが強い。だから正直いえばこういう話はとても怖い。理解されなければ攻撃され得るところで、僕は裸になってたとうとしているようなものです。ある意味では、とても嫌らしい好意でもあります。僕をみて、理解して!と言っている。

2011-02-23 17:10:43
. @numnumednumed

僕は「これが真理だ」とは言いません。何度も何度もしつこいですが、そういった理由で、僕は僕がどう思っているのかを理解するためにああいったツイートをしました。そして、そのなかでいただけた意見や知識はとても嬉しい。学問的見識をふかめようとしたことが発端ではありません。

2011-02-23 17:12:33
. @numnumednumed

以上、長々と申し訳ありませんでした。とりあえずいまのところはこんな感じです。では、いつもの僕になります。

2011-02-23 17:13:10
. @numnumednumed

------------ここまで見通しを良くするためのまとめ-----------

2011-02-24 02:34:36
. @numnumednumed

物語が描かれることで登場人物に人間性のようなものが染み込む。キャラクターがさきにあってその後に物語が描かれることもあるが、基本的にはこういう順番だと思う。

2011-02-20 17:42:35
. @numnumednumed

物語によってキャラクターがうまれるのに、物語よりもキャラクターが引き立っている場合が、あるいは矛盾した表現になるけれどキャラクターによる物語になっている場合がある。そのときその小説は物語を書いているのではなくてキャラクターを書いている。

2011-02-20 17:43:31
. @numnumednumed

『ライ麦』のような一人称で、なおかつ定型化されてるキャラクターによる小説はキャラクターによって物語が進むが、物語自体がある意味ではキャラクターであるので、そういうったものではない。

2011-02-20 17:44:54
. @numnumednumed

僕は物語が読みたいんだと思った。しかし、僕に似た登場人物が物語の結末を迎えると辛くなることが多く、どこにも辿り着かない小説を求めてるときがある。そのとき、僕はその物語をある意味で否定しているのかもしれない。

2011-02-20 17:46:19
. @numnumednumed

小説が終わることで物語はひとつの結末を迎える。はっきりとした終わりを描かれなくとも小説がそれ以上の物語を語らなくなった時点で終わりを迎えていることになる。未だに終わりを迎えていない僕に、それは登場人物の物語であって、僕とは無関係の物語となる。

2011-02-20 17:47:43
. @numnumednumed

しかしだとしてもそこにいた登場人物を抽出して、その他の可能性を想像しようとは思わない。それは物語への冒涜のように思える。ありえた可能性を物語から見出したとしても、それは僕にとってありえた可能性であって物語にとってありえた可能性ではな

2011-02-20 17:48:51
. @numnumednumed

あるいは物語にとってあり得た可能性だとしても、物語と深い関わりを持たせて新しい物語をつくることは好みではない。もしもそうしたいのであれば新しい物語を自らでつくらなければいけない。

2011-02-20 17:49:58
. @numnumednumed

ということを思った。半分読み切った。文学は娯楽だけど娯楽じゃない。でもああいった本をもしも僕が読みとしたら、所謂「文学」の価値基準で読むか、あるいは本当の意味での娯楽としてしか読めない。

2011-02-20 17:51:25
helpline @helpline

@no_num 物語消費論の話、ぼくでよければ付き合いますよ。頭の回転が早い方ではないし、議論するとメッキがはがれそうで怖いのですが、ここ数日、大塚英志や東浩紀を読み返しながらいろいろ考え直していたんです。

2011-02-20 23:46:12
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