【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」】
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【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」01】 第111話です。諸葛亮とか諸葛亮孔明とかいろいろ表記が混じることがありますが、ここでは諸葛孔明です。「葛」の字はご覧の閲覧環境によって下の部分がヒだったりしますが、正しくは人とLが組み合わさった方。東京都葛飾区と同じです。
2016-11-01 12:46:07【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」02】 Twitterやウェブ上だとしょうがないんですが、印刷物の際には必ずこの「葛」の字がチェックされます。一応気にはしてるんで、ツイッター上で「葛」の字が違うとかというクレームはなしの方向で。他のキャラの名も大概ですが…。
2016-11-01 12:48:43【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」03】 さて、この諸葛孔明。前回初登場の際、徐庶の仕官の勧めに対してご立腹だったわけですが、その理由を知るためにも、ここで諸葛孔明の生い立ちについて語られます。今回は、出生時からの孔明ヒストリーです。
2016-11-01 12:50:23【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」04】 孔明の父は、泰山の役人を勤め、叔父の玄は豫章の太守でした。叔父なので、孔明の父の弟ということですか。比較的恵まれた家庭の次男として生まれたのが孔明です。孔明の両親の名は記されていません。孔明の実母は早く死に、父は後妻をもらいます。
2016-11-01 12:53:28【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」05】 兄弟は4人、三人は男で、一人は女。兄である瑾(は早くから洛陽の大学に学ぶ秀才でした。父ですが、孔明が10歳の時に亡くなっています。この頃の漢は黄巾賊の乱で騒然としていた時期です。義母は幼い3人の子を抱え途方にくれてしまいます。
2016-11-01 12:56:32【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」06】 そんな折、長男の瑾が洛陽から帰ってきます。黄巾賊の乱が洛陽まで及んできたことを告げた瑾。そこで、諸葛一家は江東の叔父を頼って避難することにします。諸葛一家だけでなく、大勢の民が南へ南へと避難をしていました。
2016-11-01 12:58:53【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」07】 孔明は、難民をながめ、なぜ人間の群れはこんなにみじめに苦しむのかと思います。この世の中にひとりの偉人が出ればこの難民達は助かるだろうにと考えます。大人物が現れないから小さな人間が欲望をむき出しにして、世の中を混乱させるのだ、と。
2016-11-01 13:01:45【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」08】 避難の旅は、苦難の連続でした。飢えばかりでなく、大雨、虫害など大自然の暴威にも襲われます。ここで孔明は生き抜く力を学びました。諸葛一家が叔父の玄のもとにたどり着いたのは、董卓が殺された大乱の翌年(193年)です。
2016-11-01 13:05:10【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」09】 ここで孔明は半年ほど過ごしましたが、叔父の玄は劉表の招きで荊州に行くことになりました。しかし、兄の諸葛瑾は一家の計を立てたいからと、義母を連れて呉に行くことになりました。孫策のもとで大きく伸びようとする呉の国に志を求めたのです。
2016-11-01 13:06:55【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」10】 そして、孔明らの幼い兄弟達には玄という大きな保護者のもとで安全な道を歩ませようとしたのです。乱世の時代、諸葛家を分散させて一家の系統を守ろうと考えたか。ともあれ、孔明は荊州に向かいます。小さな孔明は荊州の文化に目を見張ります。
2016-11-01 13:09:15【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」11】 孔明は荊州で何不自由ない生活が一年続きます。ところが、叔父に代わって豫章を治めていた周術が病死してしまいました。そのため、叔父は再び豫州を治めるように命じられます。諸葛玄は任地の南昌に向かいます。
2016-11-01 15:13:35【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」12】 ところが、ここでおかしなこととなります。豫章の太守として、漢朝の辞令を持った朱皓という者が来ていたのです。人事や命令系統が混乱していたために起こった出来事なんでしょうが、お互いに自分が太守だといって譲ることなく戦争となりました。
2016-11-01 15:16:39【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」13】 この戦いで不幸にも叔父の玄は敗れ、命を落とします。叔父だけでなく叔母も敵の手にかかって亡くなります。孔明は弟の均を連れ、敗兵と一緒に逃げ回ります。この時、孔明は戦というものを知りました。負けたら悲惨な運命になるということも。
2016-11-01 15:18:37【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」14】 その後、孔明は荊州で過ごしましたが、17歳の時に、大学者、石韜(せきとう)の門をたたきます。ここには石韜の名を慕ってすぐれた門人が各地から集っていたのです。徐庶や孟建などもその門人の一人でした。ここで孔明は頭角を現します。
2016-11-01 15:21:51【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」15】 その才は郡を抜き、二十歳の時にはそこで学ぶこともなくなってしまい、孔明はその歳で山の中に引きこもってしまいました。学問を役立てることを知らず、学問のために学問をする無能な人達や、議論のために議論する曲学阿世の仲間から逃げたのです。
2016-11-01 15:24:09【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」16】 「曲学阿世」とは、道理を曲げて権力者や大衆に気に入られようとすること。孔明は、多くの知人・友人たちがこのような人物だと見たわけです。投ぜん、仲間はこの態度に反発します。偉ぶった奴だとか、大人ぶってとか言って嘲笑します。
2016-11-01 15:25:54【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」17】 それ以降、孔明のもとを訪ねる友は少なくなりました。訪ねる者は、孔明の恐ろしいほどの才能を見抜いた者だけです。徐庶もその一人でした。それなりに才能というか、頭が良くないと孔明と付き合えなかったわけです。
2016-11-01 15:28:28【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」18】 若き孔明のエピソードとして、こんな話が。 若い仲間が集まり、世の中のことや将来について語り合いました。一人が、なあ孔明、俺はどのくらいまで出世すると思う?と聞きました。孔明は、知事か太守ぐらいにはなれるだろう、と言います。
2016-11-01 16:12:52【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」19】 じゃあ、君は?と徐庶が話を振ると、孔明はニコリとしただけで何も答えませんでした。 孔明は出世や名誉は望んでおらず、世の中を統一するような偉人が現れた時に、その人物のために才能や学問を役立てたかったのです。
2016-11-01 16:14:23【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」20】 孔明は子どもの時に見た難民の群れの姿を忘れることが出来ませんでした。万民全て生を楽しむような世の中を作りたい。そのような世をつくろうとしている偉人を助けたい。孔明はこの田舎でそういう人物の出現を待ち続けていたのです。
2016-11-01 16:15:45【横山光輝「三国志」講座111「諸葛孔明」21】 徐庶が仕官するようにすすめに来たのに、怒りを示したのもそのせいでした。未だ自分がつかえるべき人物に出会えていない孔明。 孔明が運命の出会いを果たすのは、もう少し後のこととなります。 次回は、許都に戻った徐庶の話。 今回はここまで。
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