- Uroak_Miku
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日本語の歴史〈6〉新しい国語への歩み (平凡社ライブラリー) 亀井 孝 amazon.co.jp/dp/4582766234 明治の国語教育を分析した章がとても参考になる。まず「国語」と「漢文」の二本立てで始まり、太平洋戦争中に「古典」が生まれた。
2016-11-11 05:30:26私たちは国語を「現代文」「古文」「漢文」の三本柱で習っています。センター試験の国語問題を目にすればすぐわかる。この区分け方はどうやら戦後生まれのようですね。twitter.com/KaoruKumi/stat…
2016-11-11 05:32:03昭和4年の高校入試問題。いわゆる一高。高校といっても旧制だから今でいうと東大教養学部です。id.fnshr.info/2013/02/10/s4i…「国文解釈」「漢文解釈」「作文」の三分野。「国文解釈」が今でいう古文で「作文」がどうやら現代文。 @KaoruKumi
2016-11-11 05:35:40私たちは「現代文」というと「下線部はどういうことを言いたいのか45字以内で述べよ」とか選択肢から選ぶとかの問題を思い出しますが、この頃はアウトプット重視だったようです。@KaoruKumi
2016-11-11 05:37:30berd.benesse.jp/berd/center/op… >日本でも公立学校が設立された明治期には、むしろアメリカ以上に「型」から学ぶ形式模倣主義の作文教育が主流でした。@KaoruKumi
2016-11-11 05:41:39>ところが、大正期に子ども中心主義の新教育運動が世界的に広がると、明治の形式模倣主義への反省から、型を壊して子どもらしい文章表現を重視する「綴り方」が在野の文学者から提唱されました。@KaoruKumi
2016-11-11 05:42:11>綴り方は単に「書く技術」ではありません。子どもが体験や考えをありのままに書くことを通じて「人格修養」することを主な目的としていました。@KaoruKumi
2016-11-11 05:42:42>このアプローチが現場の教師に圧倒的な支持を得て、「生活綴り方」から戦時中の「国民学校の綴り方」へ、そして戦後も「学校作文」としてその精神は脈々と受け継がれ、現在に至っています。@KaoruKumi
2016-11-11 05:43:20>ところが皮肉なことに、型を壊したと思いきや、結果として「子どもが見たまま、感じたままを綴る学校作文」という唯一の型を作り上げてしまいました。@KaoruKumi
2016-11-11 05:43:45>日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に「綴り方」の伝統に則って、「自由に、思ったままを書けばいいんだよ」と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。@KaoruKumi
2016-11-11 05:44:25『天使の3P!』③から。小学五年生三人組バンドを指導している高校一年生の男の子。曲を作ってこの子たちに歌詞をつけてみるよう促す。@KaoruKumi pic.twitter.com/YGt78jLrbB
2016-11-11 05:50:33この男の子は小学生のとき、国語の授業で詩を作る課題で素晴らしい(少なくとも担任の先生は激賞した)詩を書いたのですが、同級生たちからキザとかいろいろ叩かれ、中学進学後もそれが祟って長く不登校になっていました。この三人組と知り合ったのがきっかけで立ち直る。@KaoruKumi
2016-11-11 05:52:50日本の国語教育の伝統を、彼は無意識に音楽指導でなぞっているのです。@KaoruKumi pic.twitter.com/NPyooNJq7b
2016-11-11 05:53:39理想化された国語指導。音楽を介したことばの自己表現。ラノベ原作のまんがのなかにひょっこりと日本の国語のDNAが現れています。面白いですね。@KaoruKumi pic.twitter.com/ZriXTLine2
2016-11-11 05:55:05今、私の頭の中では彼女たちがあのエレン先生のお隣にいます。なんだそりゃ?とかいわないように。大真面目です。@KaoruKumi pic.twitter.com/YkhOUVz2Vv
2016-11-11 05:58:45