【宥学会・遊学塾】第34回「自由の可能性と不安の時代における思考のテクネー」講師:藤井雅実[実況]
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藤井「例えばここにいる人は人間めいた振る舞いをしているロボットで、ただ一点他の人と違うのは宇宙と通信してることでありそして意識はない、しかし我々は意識有るかどうかは確認できない。AIの問題と同様だ
2016-11-11 20:27:50藤井「AIが意識を持つかどうかという問題なのだが、しかし自分以外の人たちが意識有るかどうか確認はできない。脳科学的にいえばクオリアがあるかどうかということ
2016-11-11 20:28:26藤井「それを応用して美学的ゾンビを言いたい。デュシャンの作品はまさに美学的ゾンビだろう。 ドラクロワ作品に対して哲学的ゾンビならきれいだねっていうが感動は意識ない。 しかし未来派なら美学的ゾンビで良い。
2016-11-11 20:30:35藤井「この未来派に対する美学的ゾンビ状態は学芸員の文章に思うところだ。本当に未来派の絵に対して美しさを感じているのか? 大学院レベルの教養と知識があれば感動が無くても論文は書けるし、次の時代も予測できる。そこに現代美術の関心など無くても良い
2016-11-11 20:31:39藤井「アンドレがアートといえばアートである、コスースが芸術の定義を辞書からはっつけることで芸術というが、ここでは何も感じなくても良い、つまり今までと違うものをだしことが重要というもの。
2016-11-11 20:33:46藤井「価値基準で考えれば、印象派が斬新な表現を出したといってもそこには美の意識が背景にあったはずだ。印象派的メッセージかけばそれで終わったのにやはり絵を描くことが楽しかったはずだ。白内障となってもその限界の中で絵を描きたかった、いい絵を描きたかったはず
2016-11-11 20:34:58藤井「未来派やダダとなれば政治的インパクトあることをしようとする。そこでゾンビであることがかまわなくなる。メッセージなど人を動かす手段となる。価値基準が政治的問題となっていく。
2016-11-11 20:36:27藤井「ここで倫理との兼ね合いがでる。倫理は善悪。 政治は小さくいえば法に即して行うことだが、大きく言えば人に影響を与えて動かすことだ。
2016-11-11 20:36:42藤井「フォーマリズム系では、ミニマルアートでは、政治性より知的問題。芸術とは何かを問うことだ。印象派の頃から非常に強くなる。瞬間的な目の移ろいを描くというのは一種の現実主義でリアリズムなのだけど、クールベも現実主義だが移ろいこそ現実として描いた
2016-11-11 20:38:15藤井「絵画という象徴形式で現実を把握する、ダ・ヴィンチやクールベよりそれを可能とする知的な捉え方だが、それを知的な捉え方とすれば哲学的ゾンビだが、でも美的基準がそこなったので異なる
2016-11-11 20:39:05[修正]
そこなった→無かった
藤井「ダ・ヴィンチでも知的メッセージはあったはずだ。中世的イコンを描いた時代よりは。しかし言葉で語るだけでなく奇妙な絵を描くのは知的メッセージを伝えるよりそこに意味があったからだろう
2016-11-11 20:40:01藤井「近代印象派以降はメッセージを伝える価値がせり上がり、その頂点がフォーマリズムから、色面すら消し、芸術とは芸術であると言い切ったコンセプチュアルアートであろう。消化形態ともいえる
2016-11-11 20:41:07藤井「それを更に拡大すれば世界がアートだというランドアート、逆したネタが赤瀬川原平の宇宙の缶詰だろう。これはゾンビでも理解可能な芸術だ。
2016-11-11 20:41:50藤井「僕はデッサンを数千時間してしまった人なので感覚が違う。やれる人とやれない人では感覚が異なってしまうが、、、ゾンビでも可能な芸術段階とある段階で成立した。それがモダニズムのコアを作る。前衛とフォーマリズムはどちらもゾンビで可能な芸術となってしまった
2016-11-11 20:43:59藤井「フォーマリズム系のニューマンはやはり絵を描くことが好きなんだろう。 抽象表現主義、ポロックは難しいが、カラーフィールド・ペインティングはゾンビ的感性で良いだろう。
2016-11-11 20:44:48藤井「美術は美というが、美が中心の時代は少ない。ルネッサン以前は信仰だ。中世に美を感じる人がいるにしても信仰の副産物だろう。 他文化ではまた違うだろうが。 いずれにせよ我々がいる近代美術のベースはパラダイムの大転換がありそれは指摘すべきだろう
2016-11-11 20:46:23藤井「美から知つまり世界の知り方の枠組みと、その枠組を押し付ける政治的アプローチ、それが20世紀アヴァンギャルドで展開されたが、60年~70年代には知る方での違う方法を出し、そしてついになんでも良いのではとポストモダンとなった
2016-11-11 20:47:24藤井「モダン自体が神無き信仰だろうと突き放したのがポストモダンであった。ではなんでも良いとされてしまうと、何が支配的原理となったか? クールベの時代では批評家と作家がタッグを組むが、80年代では長谷川祐子や南條史生が出現した時代だがキュレーターの時代となる。
2016-11-11 20:48:41藤井「キュレーション、それは市場と結びつける役割が大きい。政治性を発揮させるにしても市場性との媒介がある。 批評家は言葉で媒介すればいいが、キュレーターは作品をスポンサードをみつけ何処かに置くまでしないといけない。 そこから逸脱する作品は外される
2016-11-11 20:50:17藤井「批評は言葉なのでなんでも対象となるが、お客、スポンサー、その他もろもろを満足させないといけないのがキュレーターであり、以前の理論空間を作っていく状況とは異なったのが90年代だ。
2016-11-11 20:51:43