「現代文の授業なんて試験の役にたたない」と言われるまで

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uroak_miku @Uroak_Miku

1)国語教育の歴史を少し語ってみます。日本の話です。台湾や朝鮮などのいわゆる「外地」での日本語教育については除外します、事情が異なるから。

2016-11-14 09:12:52
uroak_miku @Uroak_Miku

2)幕末、権威とされる教育には三つの派がありました。漢学、国学、洋学です。漢学は要するに儒教ですよ。朱子学とかの。国学は万葉集とかを日本の支柱にすえた派で、尊王攘夷思想の母体ともなった。洋学は西洋文明を取り入れることを軸にしたからとにかく実用的。

2016-11-14 09:21:03
uroak_miku @Uroak_Miku

3)明治になって学制が発布された。小学校を全国において、そのうえに段々と学校を置いていくわけです。授業内容をどうするかで漢学者、国学者、洋学者が勢力争いを始めました。

2016-11-14 09:22:39
uroak_miku @Uroak_Miku

4)国学者が漢学者より優位にたった。幕府を倒して明治維新の支柱になった思想でしたからね。ところが明治政府は西洋に追いつくことを急務としました。西洋列強の植民地にされたくなかったら自ら西洋化するしかなかったからです。

2016-11-14 09:25:03
uroak_miku @Uroak_Miku

5)洋学者が重んじられた。それで漢学者と国学者が共同戦線を張って抵抗した。けれども最終的には一部の人材を残して東大(の母体となる機関)から追放されてしまいました。

2016-11-14 09:26:18
uroak_miku @Uroak_Miku

6)小学校が生まれました。寺子屋の延長みたいなものでしたが。読み書きのカリキュラムからしてそうでした。「国語」という教科が生まれるのは明治後期です。文を読みこなすための教科書として「読本」が用意されました。英語でいうリーダーの直訳と思われます。

2016-11-14 09:30:15
uroak_miku @Uroak_Miku

7)明治前期の小学校の読本に目を通すと、西洋の教科書をそのまま和訳したものだとわかります。不思議ですよね今でいう国語の教科書なのに翻訳ものを使っていたのだから。内容は世界地理とかです。どこそこにこういう大河が流れている等。

2016-11-14 09:31:59
uroak_miku @Uroak_Miku

8)明治30年代になってようやく今でいう国語教科書的なものが誕生します。文体をどうするかでもめたようです。漢文の書き下し文ではやはり好ましくないと判断されたものの、カナを使うかひらがなでいくかで迷った時期です。

2016-11-14 09:34:08
uroak_miku @Uroak_Miku

9)「国語」という教科名もこの頃に生まれたと思われます。この「国語」に漢文は含まれなかった。漢文は別枠となった。中等学校から習うのです。というかこの頃に「漢文」という教科名が生まれたようです。

2016-11-14 09:36:26
uroak_miku @Uroak_Miku

10)漢文(とその書き下し文)それに候文では庶民にはわからない。国家は国民がなければ成り立たないし、国民とは全員が同じ言語(つまり国語)を使いこなす人民のことです。漢文が国語と別枠になった理由がこれです。万人向けの言語とはいえないので別科目となった。

2016-11-14 09:38:56
uroak_miku @Uroak_Miku

11)今でいう「古文」はどうか?中等学校から「国語」の枠で習いだす仕組みだったそうです。国民は同じ言語を有し、同じ歴史観を有した人民のことです。すると同じ古典を仰がないといけない。『徒然草』とか『枕草子』とか『源氏物語』とか。

2016-11-14 09:41:09
uroak_miku @Uroak_Miku

12)今でいう「現代文」は明治にはなかった。「作文」はありました。大正期にぐっと台頭します。

2016-11-14 09:42:05
uroak_miku @Uroak_Miku

13)「現代文」(にあたる科目)が生まれたのは大正期です。大正といえばリベラル思想が流行った時代。当時の文部省がそういう思想の蔓延を恐れて高校(今なら大学の教養学部)の全国共通試験に「現代文」(繰り返しますが当時はこうは呼ばなかった)の問題が出るようになった。思想教育の匂い。

2016-11-14 09:46:05
uroak_miku @Uroak_Miku

14)大学(今なら大学の3~4年生)入試にも出るようになった。もっとも帝国大学では出題されず私立大学で出題されるようになった。近代文学の研究者が充実している私大で「現代文」の問題が出されるようになったのは暗示的です。

2016-11-14 09:48:11
uroak_miku @Uroak_Miku

15)帝大は国学的で、私大は近代文学的だった。そんなところです。

2016-11-14 09:49:01
uroak_miku @Uroak_Miku

16)昭和3年、文部省によって「現代文」と「体育」が国民教育の両輪とされました。前者は思想教育で後者は未来の兵隊と母胎の教育というところか。

2016-11-14 09:51:13
uroak_miku @Uroak_Miku

17)そして敗戦。戦後の民主教育の掛け声のもと、戦前から勢力を伸ばしていた「綴り方教室」メソッドが民主教育の理想として輝いた。子どもたちに「自分の感じるままに好きなことを綴ればいいんだよ」と作文を促す。これが国語教育のなかで存在感を増した。

2016-11-14 09:53:17
uroak_miku @Uroak_Miku

18)「現代文」は戦前以上に情操教育の場となっていった、のかな。研究不足なので断定はしないでおきます。

2016-11-14 09:54:05
uroak_miku @Uroak_Miku

19)そうそう今の小学校の国語教科書を六年分読んでみて、科学エッセイが必ず挟まれているのに気が付きました。私のときもそういうのありました。理科大好きっ子だったので個人的には楽しかったのですが。

2016-11-14 09:55:26
uroak_miku @Uroak_Miku

20)想像ですが敗戦の衝撃の反動として「科学する心」が戦前以上に訴えられた名残だと思います。

2016-11-14 09:56:11
uroak_miku @Uroak_Miku

21)国語の試験問題がどうして「このときの『私』の心情を40字以内に述べよ」とかの、その出題文の著者でも解けないような設問だらけになっていったのかは今のところ私にはわかりません。おそらく戦後にそうなっていったのだと思います。

2016-11-14 09:58:06
uroak_miku @Uroak_Miku

22)そして昭和54年、共通一次試験が開始。今のセンター試験の前身です。現代文の問題がさらにおかしくなっていくターニングポイントとなった、と見ます。

2016-11-14 09:59:37
uroak_miku @Uroak_Miku

23)高校生のとき漠然とこう思いました。国語の授業をいくら聞いても定期考査や模擬試験でちっとも点が取れないじゃないか、授業でも問題演習すればいいのにどうしてしないんだろう、と。

2016-11-14 10:01:12
uroak_miku @Uroak_Miku

24)和田秀樹の受験指南書を読んでいて「現代文の授業は聞くだけ無駄。点を取るコツを教えてくれるか、聞いていて元気が湧いてくるような教師でないならば身を入れて聞く必要なし」と喝破していて苦笑した覚えがあります。

2016-11-14 10:03:06
uroak_miku @Uroak_Miku

25)「数学こそ暗記科目。解法を覚えて組み合わせれば合格点をもぎ取れる。現代文はそうはいかない。どう努力しても点が取れない者は取れない」とも言い切っていました。

2016-11-14 10:06:11