偽善と儀礼的厚意の表明

アラン・ド・ボトン、「プルーストによる人生改善法」より。  アレントの「仮面」「観想」の話を想起。プロトコルであり生活圏のドラマトゥルギー
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. @pigo468

「友人から自作詩集や生まれたばかりの赤ん坊を見せられたら、相手を嬉しがらせる虚言をかけるよう我々が常に強いられていることに、目を閉ざしてはならない。」

2011-02-26 15:31:11
. @pigo468

「そうした礼儀正しさを偽善と呼んでしまっては、我々がついたささやかな嘘が、根っからの悪意を隠すためなどではなく、相手に抱いている好意をいま一度表明するためのものだったことが見えなくなってしまう。」

2011-02-26 15:32:35
. @pigo468

「我々の好意を信じるために相手が耳にする必要のある言葉と、相手に対する好意を保ちつつ我々が抱けるぎりぎりの否定的意見とのあいだには、溝があるらしい。」

2011-02-26 15:34:46
. @pigo468

「『ひどく退屈なのです。若い人たちとつねに一緒にいるのが嫌なせいです。そのあどけなさに心が痛みます。それを汚してしまうのではないか、そうでなくても傷つけてしまうのではないか、と怖くなります。私は時折人に興味を持ちますが、人間が好きではありません。人間には知性が足りないからです』」

2011-02-26 15:37:23
. @pigo468

(反論として)「私は知的な仕事を自分の中で行ないます。ひとたびほかの人と一緒になれば、その人たちが知的であるかどうかは、多かれ少なかれどうでもいいのです。その人たちが親切だったり、誠実だったりするかぎり。」

2011-02-26 15:39:12