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一種の領地安堵状。蝦夷地松前は米がとれないので、日本のどこの領地よりも特殊な状態だったことがわかった。 pic.twitter.com/90be721ukx
2017-01-30 16:03:48夷狄(アイヌ)蜂起続く。あまりに多くてうんざりする。蠣崎義広当主は1545年天文14年、67歳で死去。当主時代、夷狄(アイヌ)との戦いに終始身を投じたといえる。 pic.twitter.com/5XsfG9UWc7
2017-01-30 16:09:16その後、第4世季廣が松前守護職となり、1550年天文19年蝦夷地管領職である安東舜季に渡海を懇請してやっと「夷狄之商舶往還法度」ができた。 pic.twitter.com/m3CZ0tyTxk
2017-01-30 16:16:20「夷狄之商舶往還法度」って何?ってことで、意味参照。 pic.twitter.com/Wxs084ZSnJ
2017-01-30 16:18:05今までの解説を読んで「今こそ知りたいアイヌ」雑誌の「商人から徴収した税金をアイヌ側にも分配する制度」じゃないことがおわかりいただけただろうか。「アイヌが松前に夷役として納めた」早い話が税の一種として公用の労働に従事したということになる。 pic.twitter.com/SlPbe44mIt
2017-01-30 16:30:57樺太アイヌと文献に書かれていますがこれが過ちですね。エンチュウ等をアイヌ視し話を拗らせています。数世紀も前から自称として使われ北海道の所謂アイヌとは系譜が違いますよね。 twitter.com/happykilala/st…
2017-01-30 16:45:53「北海道戦国史と松前氏」新藤透著 1394年応永元年「北の応永の外寇」が起きた後に1457年康正3年コシャマインの乱に繋がっていく。 pic.twitter.com/43mlCCkarq
2017-01-30 15:43:08@SunazawaJin ご指摘ありがとうございます。著者も「推測の域を出ない」と記述があったのですが、この時代の文献が乏しく参考にしました。なんでもかんでも「アイヌ」と表記されているので、分けてほしいと思いますが「アイヌ」以外の名称記述がないのでなんとも困ります。
2017-01-30 16:51:08「今こそ知りたいアイヌ」雑誌続:「秀吉にラッコの皮を贈るなど巧みに取り入り」ってあるけど、実際は関白豊臣秀吉が天下統一のための「惣無事」を無視した北条氏を討つため各諸大名に1589年天正17年上洛せよと命じたからだよ。上洛の命は絶対、無視すれば言わなくてもわかるよね。 pic.twitter.com/ff5EX9r4C3
2017-02-01 15:26:251590年天正18年上洛の命を受けた松前城主蠣崎慶広は聚楽第で初めて「天下人」の関白豊臣秀吉に謁見。このとき慶広は秀吉に国政の朱印状を発布してもらっている。「現代語訳新羅之記録」木村裕俊訳 松前景廣著 pic.twitter.com/Zj63JOU3Xu
2017-02-01 15:28:40朝鮮出兵までした秀頼のことだから蝦夷に進軍して夷狄討伐するのは容易かったんじゃないかと思ったらその通りだった。上洛した時、慶広は秀吉だけじゃなく、家康にも謁見していた。 pic.twitter.com/epvyhhG6IE
2017-02-01 15:29:23後日松前藩に帰郷した慶広は東西の夷狄(アイヌ)を呼び寄せ朱印状を見せその内容を夷狄(アイヌ)語で読み聞かせた。恐るべし関白秀吉、これにより蜂起はなくなり諸国から往来する商人は安心して商売ができたとある。 pic.twitter.com/eCaufXMGBf
2017-02-01 15:30:06雑誌の一文に「アイヌ勢力と和人勢力との争いは影を潜めていた」ってあるけど、秀吉の朱印状があるのになぜ書かないの?それだって蠣崎慶広が夷狄蜂起(アイヌ)を鎮めるための策として考えたものなのに、この雑誌は説明しない書かない自由を行使しているとみた。
2017-02-01 15:30:321604年慶長9年徳川家康によって蝦夷地統治を認める刻印状が発給される。松前氏が「天下人」家康から対夷狄(アイヌ)交易を独占する権利を与えられたことは、幕藩体制に大名として完全に組み込まれたことになる。 pic.twitter.com/NTogxrmd1i
2017-02-01 15:31:02このときの夷狄(アイヌ)の行動は自由で松前氏の支配下にはなかったとある。キリスト教の宣教師アンジェリスも蝦夷地への出入りは自由であったことを残している。「北海道戦国史と松前氏」新藤透著 pic.twitter.com/1V4UtVxO2i
2017-02-01 15:32:21松前藩の経済基盤として1620年元和6年に金山が見つかったとある。松前藩は通商と鉱山からの収益で財政がまかなわれていた。とても財政難に陥っているようには思えない。 pic.twitter.com/PwPpJIrE69
2017-02-01 15:34:23元和年間1615~1624に蝦夷地に渡ったキリスト教宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスによると、夷狄(アイヌ)の交易は松前藩だけではなく諸国を廻って手広く交易を行っているのがわかる。 pic.twitter.com/r6qI6Qx3MS
2017-02-01 15:35:021633年寛永10年三代将軍徳川家光のときに、幕府巡検使を全国に派遣。蝦夷地に来島し、和人地と夷狄(アイヌ)の区域を区分することになった。しかし、巡検使の区分設定も山が険しくて馬では入れないなどの理由で打ち切られているので、区分については不明瞭であった。
2017-02-01 15:35:19その後、夷狄蜂起になるのだが、その経緯については漁業権をめぐる夷狄(アイヌ)間による武力衝突であった。このときすでに「城下交易制」から「商場知行制」に変っていて、松前藩士のほうから出向いて商場と呼ばれる交易場所を設定してそこで交易が行われた。 pic.twitter.com/4DK5qRvxUL
2017-02-01 15:37:29シャクシャインの乱の後、松前藩の戦後処理は各地の夷狄(アイヌ)の首長たちに七か条の起請文を提出させ、蝦夷地と和人地との境界には関所を設け、入念な検査を経なければ和人は蝦夷地には入れなくなった。一方で夷狄(アイヌ)に不利な交換レートは改善された。
2017-02-01 15:37:48しかし、1671年寛文11年まで夷狄蜂起が続き松前藩が出兵。これほどの事件が起きたにもかかわらず幕府から松前藩にはお咎めなしだった。他藩なら改易も十分考えられるほどの失態であった。しかし、幕閣内には夷狄を抑えられるのは松前氏しかいないという認識があったのかもしれない。
2017-02-01 15:37:58ここまで調べてみたけど、「今こそ知りたいアイヌ」雑誌の「松前藩以外との交易を禁止されたも同然だからだ」は嘘だとおわかりいただけただろうか。交易品の為替レートが変更になったのは全国的な飢饉により米が不作になったから。松前藩は米がとれないので船で米を本州から輸送していた。
2017-02-01 15:38:20それに夷狄(アイヌ)の交易相手は松前藩だけじゃない。千島の原住民、樺太の原住民、大陸(ニンクタ)での交易、蝦夷地内で和人以外の夷狄との交易、随分手広く展開している。これのどこが「自由な貿易ができない」などと嘘を書くのか不思議でならない。 pic.twitter.com/MIHjZfQ21z
2017-02-01 15:38:49「今こそ知りたいアイヌ」続き。シャクシャインの特集ページ。このページのアイヌ名称が「アイヌ民族」に変わっているので、このページは別の人が書いたんだとわかる。 pic.twitter.com/sychZajJAX
2017-02-05 20:21:46交易制度の不満でシャクシャインが乱を起こしたんじゃなくて、東夷狄(アイヌ)と西夷狄(アイヌ)の漁業権を巡る争いが発端で起きたとある。「北海道戦国史と松前氏 著新藤透」 pic.twitter.com/r1qyzvbiDT
2017-02-05 20:23:07