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平山優先生『武田氏と真田一族』講演会(1/21)気づき。きささん @Kisaimode のツイートも含みます。

まとめました。
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日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 講演まとめ。一部メモが飛んでるのであやふやなところもありますが・・・台湾での真田丸の放映。中華圏で日本の戦国時代というと、武田信玄と徳川家康に関心が高いそうな。家康は山岡宗八の小説の翻訳と最終的に勝ち上がったという点がウケているそうです。

2017-01-21 20:31:34
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 信玄に関しては孫子兵法を積極的に活用したという点。真田その両者に関係が深く、真田にも意外と関心ある方が中華圏にいるのだそうです。・・・ってことは、真田丸@台湾、盛り上がりそうですね。

2017-01-21 20:32:37
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 真田丸にかこつけて、やっぱりもうちょっと真田丸にもうちょっと乗っかって山梨県、観光やればいいのにというお話も。昌幸が青春時代を過ごし、信幸・信繁が生まれた甲府ですからねぇ。

2017-01-21 20:33:07
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 平山先生のお話で気づいたことは、お城やその他史跡の紹介を交えてくださるのだけど、行ったときの感想や行く時の注意点、ぜひ行ってくださいという一押し。やはり、歴史に興味を持つ人が増えて、何らかの形で観光につながるべきだという思いがベースにあるんだろうなと。

2017-01-21 20:33:39
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 さて本題。幸綱の頃から話しが始まって出てきた二つの信虎像。甲府大泉寺蔵と高野山成慶院蔵。並べてみると面白い。姿や意匠、ポーズや持ち物はまるで同じなのですが、大泉寺のほうはシュッとしていて眼光鋭く、成慶院のほうはまるっとしててくたびれたというか(笑)

2017-01-21 20:34:21
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 ちょっと幸綱時代でもうひとつ。永禄8(1565)年上野・嵩山城攻めでしたかほぼ真田単独で攻め落としているという話のときに、幸綱・信綱・昌輝・昌幸・信尹(昌春)の5名が一緒に・・・という言葉があって、ちょっとわくわくしましたね(笑)

2017-01-21 20:34:49
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 永禄7(1564)年に出家、同10(1567)年の白井城調略が幸綱の現役最後ですから、貴重な機会。幸綱が有能な息子らとともに攻めてる姿を想像すると、なかなか楽しいですw

2017-01-21 20:35:33
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 昌幸は17歳、信尹もほぼ同年代、長兄信綱が27歳。この息子たちがあーだこーだしてるの、シッカリしている信綱が弟たちを諭してたりとか・・すごい映像で見たい・・・・とか思っちゃいました(笑)信尹が駿河深沢城で功があったのが永禄12(1569)年で、4年後。

2017-01-21 20:35:56
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 すこし飛んで、長篠合戦に至る経緯。家康配下の大岡弥四郎が勝頼の調略に応じ内応。これが事前露見したんですよね。そこで足助城を落とした武田の先発隊は作手(古宮城?)で本隊と合流して、吉田城から長篠城を攻めた・・・と。この時点ですでに目論見狂ってるんだよなぁ。

2017-01-21 20:36:43
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 長篠城攻めても背後を封じられて退路絶たれていて、すべてが狂っていく感じ。おかしいなと思ったときにどこで引けるか・・・って難しいよねと感じるよね。

2017-01-21 20:37:19
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 あと長篠合戦図屏風から、合戦図屏風っていろんな場面が同時進行的に至る所に描かれているのは、説明するときに時系列を追って説明していくためのもの、ということでへぇへぇへぇ。

2017-01-21 20:37:37
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 弾薬・鉄砲玉の不足というところは、ご著書「長篠合戦と武田勝頼」でもありましたけど、興味を引いたのは、織田徳川と武田の鉄砲の実装率。当時武田は兵力の10%程度の鉄砲は保有していたらしいのですが、織田徳川方も兵3万5千として3千挺なら10%を少し割るくらい?

2017-01-21 20:38:40
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 ・・・ってことは、かわんねーじゃんってこと。むしろ天文24(1555)年第二次川中島で旭山城に3百挺の鉄砲の搬入を信玄が指示していて、鉄砲伝来の12年後には鉄砲を使いこなしているんですよね。

2017-01-21 20:39:11
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 鉛の入手困難に関しては、後年北条も小田原の役で鐘を後で寄進しなおすから、供出してくれとか言ってますし、武田も浅間神社の賽銭を鋳潰して鉄砲玉にするからっていうくらい。

2017-01-21 20:39:52
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 上方との鉄砲に関する物資の差を、先の戦争におけるアメリカと日本に喩えてられました。戦艦大和や零戦が造れ、戦闘力が高くても、物量の差に敗れたという・・・ただ、作戦面に関しても旧日本軍との対比で長篠合戦の勝頼を考えていくと、面白いのかもしれないなとふと。

2017-01-21 20:40:34
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 長篠の信綱討死から、信綱妻・於北の話から清音院殿(おこうさん)の話にも。長野里美さんからもお墓探してみてくださいと言われて探そうとしてみたらしいのですが、松代藩が200年前に探してわからなかったのに俺がわかるわけないって(笑)

2017-01-21 20:41:09
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 於北は天正8(1580)年没ということで、かなり早いうちに父母失ってるのね、おこうさん・・・・この天正8年は武田の領国が最も広がった時期。昌幸が沼田城を攻略してほぼ上野全域を武田領国に組み込むことに成功。

2017-01-21 20:41:56
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 北は御館の乱で景勝から飯山を併合を認めさせ、さらに小谷、糸魚川、十日町まで武田領。よほど上杉も厳しくて勝頼に譲歩せざるを得なかったのだなぁと。上杉領に食い込むことよりも、やっぱり北条との関係をね・・・という気がしないでもないですけど。

2017-01-21 20:42:44
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 新府城。丸馬出や枡形のある大手門に建物の痕跡が発掘してもなく、勝頼の居所である本丸の一部と搦手門くらいしか、建物がなかったのではないかということだそう。さすがにそれでは籠城は厳しい・・・??

2017-01-21 20:43:12
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 岩殿城に向かった勝頼はここで立て直して、勝沼で起死回生の一戦を考えていたのだとか。「甲乱記」にあるように、小諸に相模守信豊が入って、小諸の信豊・岩櫃の昌幸・箕輪の昌月が勝沼でぶつかる武田主力と織田勢の背後を突く…幻の勝沼の合戦を考えていたのかもしれませんね。

2017-01-21 20:43:48
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 滅亡後。信長には楯突かないのに、秀吉にはごねる氏政の巻。武田をあっという間につぶした信長へ、北条に付いていた関東の国衆ですら翻る有様。北条は信長にさすがに逆らえず・・・秀吉は舐められていた?

2017-01-21 20:44:24
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 小山城を占領した北条に対し、小山秀綱に泣きつかれた信長は滝川一益経由で北条に小山への返還の要求には素直に従ってるんですって。名胡桃であれだけごねたのに・・・(笑)それほど、武田を潰したという影響の強さがあったんですね・・・

2017-01-21 20:44:42
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 まとめ。昌幸の動きを見てると、やってることが信玄と同じですごくわかりやすいと。ベースとなる考え方を理解するとわかりやすいってのはホント同意。どこかの著書で昌幸を「小信玄」と書かれてたのは、ホントそう思いますよね。武田なくして真田なし、真田なくして武田なし。

2017-01-21 20:45:13
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 最後質問コーナー。勝頼滅亡の直接的な原因についての質問。やはり、高天神を見捨てざるを得なかったこと、そしてその背後にある北条との手切れ。実際遺臣も北条手切れが滅亡の原因と見ているということに対し、では勝頼はそのとき何を企図していたのか?について。

2017-01-21 20:45:56
日光 LXXXI @nikko81_fsi

#武田氏と真田一族 どこかで読んだ気がしますが、勝頼は上杉・北条・武田の三国同盟を狙っていたと。まぁそれが運がなかった・・・ということでした。が、興味深いのがこれ以前にもチャンスがあったということ。いずれも謙信存命時で、一度目は謙信が氏政許しがたしと拒否。

2017-01-21 20:46:36
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