徳川家康の側室の養珠院について(仮説)

養珠院の出自についての高村不期さんとのやりとり。 ここでは北条氏出身と仮定して話は進みます。 私自身は江雪斎の姪説が好きですが、今回それとは違う説をまとめました。
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高村不期 @buqimingri

趣味で史料漁りをしています。後北条・今川の戦国遺文をちらほらと眺めている今日この頃。 corpus 11,397files rek.jp/0157

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ちかだ @paris1919_

鍵アカと売春系はブロ解します。 成人済み腐婆。 好きなもの ・日本史:江雪斎、後北条、徳川 ・とうらぶ:小夜と歌仙 ・ひぐらし:さとりか ・ドラマ実況します ウクライナ頑張れ!オタ友のベラ元気に生きていて!! 中華アカ除けテスト・六四天安門事件

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私は現在アカウントに鍵掛けてるので、フォロワー以外は読めなかったらご勘弁。


高村不期 @buqimingri

以前作った、後北条・今川・武田に関連した女性系図。京都から下った女性たちの血脈が窺える。 pic.twitter.com/FFx5oPHxFQ

2017-01-09 13:30:16
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近田 @paris1919_

@buqimingri あ、高村さんは養珠院は北条氏説支持でらっしゃるのですね。ただそれだけのリプで失礼しましたw

2017-01-09 13:55:16
高村不期 @buqimingri

@paris1919_ 家康側室の方の養珠院ですよね(ややこしいですが……) 私の手元の書籍だと正木頼忠の娘としか書かれていなかったのですが、他説もあるのでしょうか? もしご存知でしたら教えていただけると嬉しいです。

2017-01-09 14:11:50
近田 @paris1919_

@buqimingri 家康側室説もそれはそれで家康面白いなあと思っているので、それを否定したいとかそういうつもりはありません! 南紀徳川史「名臣伝」に養珠院とは「叔姪ニシテ」他、家康が江雪に養珠院に会いに大奥に入っても良いぞと言う場面があるのと、

2017-01-09 14:30:49
近田 @paris1919_

@buqimingri (続き) 「岡野家記録抜卒」の「養珠院様より権左英明へ被下候御書之写」で江雪について英明(江雪の孫)に語っていること、実父とされる正木頼忠も継父の蔭山氏広も北条家の血縁者にしては家格・身分が低めでは?と勝手に私が思った事から、融成姪説を支持しています。が、

2017-01-09 14:35:53
近田 @paris1919_

@buqimingri (すいません最後にもう1リプです) でも南紀徳川史自体そう正確には思えませんし(同時代じゃありませんしねw)、これだと確信しているわけではありません。

2017-01-09 14:37:31
高村不期 @buqimingri

@paris1919_ 家康の妻は出自が定かでない人が複数いますから、家格は余り深く考えなくてもよいかも知れません。最初の正妻とされる清池院(信康母)も、実際のところ誰か不明だったりしますし……。養珠院の母については『家臣団辞典』でも錯綜しています。

2017-01-09 15:12:54
高村不期 @buqimingri

@paris1919_ 蔭山氏広の項で「室は北条氏隆の娘」「幻庵の孫娘が氏広の妻に当たる」とあって、記述が混乱しています。氏広墓所は三島市の妙法華寺で、この寺が一時期あった加殿村の妙国寺に、天正末年に氏広と養女お万がいたとの記録があるそうです。

2017-01-09 15:13:43
高村不期 @buqimingri

@paris1919_ また一方、正木頼忠の項で「氏尭の娘(田中素行の娘、氏尭の養女)は頼忠の室(中略)頼忠が小田原城に居た時に結婚し直連・為春の男子とお万が生まれた(中略)室は天正三年頃に夫頼忠と離別し蔭山氏広と再婚」とあります。どちらの記述も出典が定かではありませんでした。

2017-01-09 15:14:13
高村不期 @buqimingri

家康側室養珠院の出自について。編著史料では、北条氏尭が田中素行の娘を養女として正木頼忠に娶わせ、お万(養珠院)が生まれたとする。ただ、頼忠が小田原に来たのは永禄7年で、北条氏尭の文書が既に途絶えた後となる。更に正木氏の取次は氏照・氏規であって氏尭は本来関連性がない。

2017-01-09 15:40:14
高村不期 @buqimingri

@buqimingri このことから、氏尭が養女を貰ってまで頼忠との縁を求めたとは考え難い。 (氏尭は1522(大永2)年生まれ。文書の発給は、1555(天文24)年4月~1562(永禄5)年8月。40歳までは確認できる。過去帳から4月死没と判るので亡くなったのは永禄6年以降)

2017-01-09 15:40:57
高村不期 @buqimingri

@buqimingri しかし実際に、頼忠は氏尭の息子とされる氏光と交流があり、氏尭・氏忠と深い関連のある林際寺とも繋がっている。この事から、死去後の氏尭の実の娘を、氏康が頼忠に嫁がせたと考えた方が自然だと思う(息子の氏忠・氏光は氏康養子となった)。

2017-01-09 15:41:53
高村不期 @buqimingri

北条氏尭の室は不明だけど、もしかしたら蔭山氏広の姉か妹だったんじゃないだろうか。蔭山氏は鶴岡八幡造営の頃から家中にいたことは確実で、松田直秀書状から吉良氏朝とも交流があった根本被官だったことが判っている。また、遺児の氏忠は晩年を氏広と共に伊豆林際寺で過ごした可能性もある。

2017-01-09 16:30:22
高村不期 @buqimingri

@buqimingri もしそうなら、正木頼忠が帰国した後にその妻子を引き取ったのは、再婚ではなく母方の実家に戻したことになる。

2017-01-09 16:30:40

余談。
養珠院に直接関係はありませんが、小田原戦後の北条家の人々の動向を色々呟いたもので、文書に違和感がある話や、クラスタ的に思いがけない御家と繋がりがあったねという話…

近田 @paris1919_

何の脈絡もなく妄想ツイ。養珠院の母親が北條氏だったとして、その子(養珠院)を家康が側室にするのが対外的に問題になりそうなので、じゃあ家来(融成)の親戚ってことにしておこう、という政治的配慮の結果、誰の子なんだかよくわからんくなった、とか?南紀徳川史以前はどう言われていたんだろう?

2017-01-25 22:18:53
近田 @paris1919_

さっきRTした論文の、氏忠から高室院宛てのお手紙を眺めつつ、そんなことを想像しましたw

2017-01-25 22:20:56
近田 @paris1919_

氏忠、氏規のすぐ下の弟。佐野城主を継承してからは佐野氏忠とも称したそうで。側室も佐野氏から迎えた人がいたそうで。

2017-01-25 22:35:21
近田 @paris1919_

そしていきなり話変わるけども、佐野氏といえば「見えすぎた物見」と、風雲児たちクラスタにもおなじみの田沼意知を殺害したあの佐野善左衛門。田沼意次も下野佐野氏

2017-01-25 22:36:09
高村不期 @buqimingri

@paris1919_ 高室院宛ての氏忠書状写は戦国遺文にも収録されているのですが(3941号)、同日付の氏光書状写よりも文面が厚礼過ぎて私は「要検討」だと考えています(例えば、氏光の結びは「恐ゝ謹言」、被官の山角直繁も同じく恐ゝ謹言なのに氏忠は「恐惶敬白」とか)。

2017-01-25 22:41:24
高村不期 @buqimingri

「就小田原仕合、氏直所へ預御使僧候、依之御状本望ニ存候、仍氏直其元へ依被罷登候致供候、万事御指南頼候、将又、両種被懸御意候、忝存候、猶於其地可得御意候、恐ゝ謹言」 八月二日/氏光(花押)/高室院尊報 戦国遺文後北条氏編「北条氏光書状写」(集古文書七十五)

2017-01-25 22:49:05