フレディ・マーキュリー伝新刊 『Somebody to Love』 だらだら読書記録
フレディの好きな映画の一つに『悲しみは空の彼方に』があった。主演のラナターナーがお気に入り。何度も見ては悲しい結末に涙を流したそう #stl
2017-01-29 22:19:01@dekipema ……彼は自分の愛憎劇を糧に曲作りに励むことがあったという。感情の激しいうねりが快感だったんだろう。生を実感できたのかも
2017-01-29 22:30:58@dekipema ザンジバル時代から小さなフレディはよくレコードを聴いていた。フォーク、クラシック、インドミュージックなど色々な音楽を。両親に連れられて行く会合やパーティでは、いつしか歌ってと頼まれることが恒例に。 ……小さなフレディが一生懸命うたう姿、きゅん。。
2017-01-29 23:58:53@dekipema 憧れの歌手ラタ・マンゲーシュカル @mangeshkarlata を彼が生で聴いたのは1959年11月、ムンバイでのコンサートで。インド一のプレイバックシンガーと称えられる彼女は2年後にフレディ在籍の寄宿学校セントピーターズを訪れ、彼や学友たちの前でも演奏。
2017-01-30 00:38:18フレディがインド、パンチガニの寄宿学校を去ったのが1963年2月末。ザンジバルに戻り地元の学校へ通っていた頃、西洋のポップカルチャーに憧れるファールク青年はイギリス行きを熱望していたと、母ジャーがインタビューで。絵空事だったのが1年ほどで現実になるとは、彼の強運たるや #stl
2017-01-31 00:44:09数日前から読み始めたSomebody to Love: The Life, Death and Legacy of Freddie Mercury、Matt Richards とMark Langthorneの共著。カバー帯には、本書の特徴がフレディの死についての #stl
2017-01-31 20:13:44@dekipema 記述であることが書かれていて、目次もなくいきなりの序章は実際のところ「1991年11月。」で始まる。第1章は1908年のベルギー領コンゴが舞台。エイズウィルスが野生動物からヒトへ感染した経緯やその後の拡散が社会背景とともに説明されている。
2017-01-31 20:23:04@dekipema 続いてブルサラ一家の英移住については、ザンジバルの政変や当時の英国の移民の状況などの丁寧な説明が。俯瞰的に見ることが可能になっている。フレディの死についての記述をウリにすることに初めは不信感を覚えたけど、期待できるかも。読み通せるかは気分次第、根気次第。。
2017-01-31 20:55:11@dekipema 陽光きらめきそこそこの暮らしができたザンジバルから一転、どんよりした空の下での余裕のないロンドンでの生活が始まった。移住はできたものの、社会的に移民への風当たりが非常に強まっており、ブルサラ夫妻の気苦労は小さくなかったはず。息子に安定した職業を望むのは当然。
2017-01-31 21:12:37@dekipema 息子の進路をめぐって母子の口げんかが絶えなかったというのも、こうした背景を知るとより現実みを帯びたものとして思い浮かべられる。両親は単にステータスの高い職業をと望んだのではなく、この国でこれから生きていく息子の将来のために安定した社会的地位をと考えたんだろう。
2017-01-31 21:22:41フレディがパンチガニの学校を落第のために去らざるを得なかったことはあちこちに書かれている。ザンジバルに戻って通った学校でも、成績は決して芳しいものではなかったよう。STL本では、両方の学校での学業についてはっきり「不出来だった」と。 #stl
2017-02-02 00:13:56@dekipema 英移住後のアートスクールでは校長から、ファッションデザインコースを去ることを求められたと。ここでも学業は振るわず。それは科目以外のことに集中していたからで、パンチガニではバンド活動だったろうしロンドンではジミヘンライブ巡りだったり。
2017-02-02 00:23:50@dekipema アートスクールは結局、コース変更して在籍することを校長に認めさせたと。そこでティムスタフェルに会うことになるのだから、その時の説得が後のクイーン誕生のきっかけの一つともいえる。
2017-02-02 00:31:22@dekipema アートスクールでの成績が振るわなかったのは、そもそもスターとなるための登竜門として入学を熱望していたのであって、そこで学ぶ科目への関心はどちらかというと低かったためで、つまり端から勉強する気はあまり…だったのではないかと思われる。
2017-02-03 01:06:34高等教育の機会をロックスターへの足がかりとみなしていたのはフレディに限らなかったようで、「色々な人に会いバンドを組むためにロンドンの大学へ。大学はロンドンに出るための手段だった」とロジャー queenonline.com/en/features/ro… #stl
2017-02-05 22:25:21@dekipema インペリアルカレッジの貼り紙から実現したロジャーのオーディションは、ブライアンとティムスタフェルがアコースティックギター持参でロジャーのアパートにやって来て行われた。……ずいぶん気軽な感じ。ハッタリのために付き人を同行させたりもしたフレディとは大違い
2017-02-05 22:46:07@dekipema ブライアン、ティム、ロジャーのバンドSmile、3度目の大規模なライブが初の新聞批評に。「西洋でもっともやかましいグループ」とタイムズ紙。
2017-02-05 23:01:50@dekipema フレディのSmile加入願望熱望は周囲にも知られるほど。そんな中でのSmileの、米マーキュリーレコードとのシングルレコード発売契約。フレディにとってのみがたいものだったに違いないと #stl 著者。
2017-02-05 23:23:26@dekipema Ibex期かその前の頃のフレディのガールフレンド、アートスクール同級生のローズマリーピアソン「彼はカリスマ的で、とんでもない格好をした。ショートパンツで上半身はだか、毛皮のコート」「いつも聴衆を前にしているようなふるまい。二人だけでいる時も。
2017-02-06 00:07:48@dekipema 身ぶりが芝居がかっていて、困ったことに路上で突然歌い出すこともしばしば」「注目の的になることが好きなんだけど、時々後悔してた」……ヒリヒリするような痛い時期。でも一生懸命さ、向こう見ずな若さが愛しい。
2017-02-06 00:18:42@dekipema ……IbexとSour milk seaいずれも、こうと思い定めて突き進むフレディを扱いかねたよう。彼と伍していく力量を持てるのはやはり限られた人のみ。
2017-02-06 00:51:22@dekipema Smile加入を夢見るフレディはブライアンやロジャーにいつも言った。僕が歌うなら、僕たちはこれもあれも、こんなこともあんなこともできる……彼の瞳の輝き、大きな身ぶりが眼に浮かぶよう
2017-02-06 00:57:01#stl 本、読み始めて間もないが、フレディのホモセクシュアル面に堂々と踏み入っていく気配。ゲイの人々を取り巻く社会環境、法制から説き起こしている。フレディがいつどこで何をしたというクロニクルとは異なり、時代背景や社会史的側面まで描こうとする、これが本書の特長の一つ。読み応えあり
2017-02-08 00:50:35ブルサラ一家の移住(1964)当時、英でホモセクシュアル的行動は犯罪行為であり、その後公然とでなければ罪に問われないという法ができたといってもゲイの人々への風当たりは非常に強かったと。そこへゲイの男女を魅力的に描くものとしては初の映画の一つ、『キャバレー』が公開。 #stl
2017-02-11 00:40:03