フレディ・マーキュリー伝新刊 『Somebody to Love』 だらだら読書記録
@dekipema 同じ頃ミュージカル『ロッキーホラーショウ』も公開、ゲイの人々が自由にふるまえる空気が広まりつつあり、さらにグラムロックの登場で両性具有的イメージも広く知られるように。しかしゲイだと明らかにするミュージシャンはおらず、フレディも同様だったと。
2017-02-11 00:56:49@dekipema ゲイであることを隠しストレートを演じる者が、ホ○とか売○婦の意味もある「クイーン」という名のバンドのフロントマン。他のメンバーの普通さ、正規性の陰に隠れて。
2017-02-11 01:18:51@dekipema ……上記のような時代背景や彼が生涯カミングアウトしなかったという事実があり、一方ではまだ海のものとも山のものとも知れない時期にこの名を推した強い意志と先見力。おそるべし、青年フレディ。
2017-02-11 01:21:46Smile時代のバスプレイヤーの一人、マイクグロース「ブライアンとロジャーが説明してくれた。バンドにはフレディがいること、彼とは長い知り合いだということ、彼はずっとスマイルに入りたがっていたこと」「ティムの声の方が好きだった。フレディは高音になるといつも #stl
2017-02-11 23:30:17@dekipema マイクを口から離すので声が聞きにくかった」「でもブライアンはフレディのことをよく話題にした。舞台でのフレディを信頼していたんだと思う」 ……頭角を現していくフレディをブライアンは驚きと期待をもって真近で見つめていたんだろう。新生スマイルの未来を予想したろうか。
2017-02-11 23:43:53@dekipema ブライアン「フレディは個性が強くて、最初はすごいシンガー、ミュージシャンとは思わなかった。とても荒っぽくて、洗練されていなかったから。ただ信じがたいほどの信念とカリスマの持ち主だと。私たちは彼が好きだった」
2017-02-11 23:54:11@dekipema 事実上初めてフレディがスマイルのリードシンガーとして歌ったトゥルロでのパフォーマンスについて、ロジャー「フレディはまだ後々のようなテクニックがなく、パワフルな羊が鳴いてるみたいだった」「母は衝撃を受けていた」
2017-02-12 00:29:121970/9/18、ジミヘンドリクスの死を知った日、クイーンのリハーサルは自分たちのをやらず彼の曲ばかりになった。そのせいか、直後のライブは最悪に。ケンジントンマーケットの店主仲間、アランメイアー「ロジャーとブライアンは十分堂に入っていたが、問題はフレディだ。 #stl
2017-02-12 22:27:28@dekipema 初期の彼は声が高くなる傾向があったが、その日は熱が入りすぎて上げ気味にしたんだろう。よくやる歩きながら首をのけぞらせる動きがちょっと調子外れで、ぎこちなかった。後でフレディに感想をどう言おうか困ったよ」
2017-02-12 23:14:21@dekipema フレディがケンジントンのブティックBibaで働くメアリオースティンに、挨拶するだけの関係の約半年を経て初めてデートを申し込んだのが1970/9/5。その時は断られ、ようやくデートが実現したのは同月30日、一緒にモットザフープルのコンサートへ。
2017-02-13 00:28:27ジョンの前任ベーシストで派手に舞台を自分のものにしてクビになったダグボギー、クイーンのライブ後恒例の言い合いで、もうやめたいと言うフレディの言葉をその通りに受けとって、クイーンはこれで解散と信じた。 #stl
2017-03-05 23:40:58@dekipema 数年後、彼らのファーストアルバムが出た時初めて、ああ、あれは自分にいやな思いをさせないためのやり方だったのだと気づいたと。 ……丁重にお引き取り願ったということ(笑)
2017-03-05 23:48:23@dekipema ジョンが初めて手に入れた楽器は、7歳の頃両親に買ってもらったプラスチックのギター。本格的にはそれより数年後に母親に頼んでスパニッシュギターを購入。ギターを持っている友人たちに感化されたよう。
2017-03-06 00:23:59LiarはもともとWreckage時代のフレディ(とマイクバーシン)作で、クイーンの曲として録音する段になって誰の作とするかで論争になった。リハーサルやライブ演奏を重ねる間に他の3人が貢献した部分もあったので、皆がクレジットに自分の名を入れることを望んだ。 #stl
2017-03-09 00:24:35@dekipema その時フレディ「歌詞を書いた者がその曲を書いたということだと思う」。以後、Kind of magicまでこのルールが続いた。
2017-03-09 00:37:12@dekipema ケンジントンマーケット時代の知人女性によると、フレディは裁縫がうまくて、スパンコールを縫い付けるなんてこともできたと。 ……やっぱり器用だったんだな。寝押しでズボンにピンと筋を入れるのなんてお茶の子さいさいだったろうな。
2017-03-09 00:49:57ラリールレックス名義、フレディの l can hear musicは米チャート115位まで上った。 ……100位に届かなかったのは残念だが、かなりの健闘。元歌のザロネッツやビーチボーイズではなくフレディの声で記憶している人がかなりいる/いたんじゃないか #stl
2017-03-11 23:25:511972年11月の契約開始から翌年の夏の終わりまでに、トライデントは現在の価格で約75万ポンドをクイーンのために使ったと。 ……ざっくりで1億円ほど。それほど投資しながら1stアルバムは発売から8ヶ月もチャート入りしなかったというから、やっぱり販売のウデが? #stl
2017-03-18 00:19:00@dekipema これじゃアカン、もっと知名度上げねばと雇われたトニーブレインズビー、初対面のフレディに自分の目が信じられなかったそう。その時のフレディのいでたちは、赤のベルベットのピタピタパンツ、黒のマニキュア、長髪、そしてあの歯、と。 ……そのパンツは見たことないような。
2017-03-18 00:48:14@dekipema トニーのフレディ評:強い意志、むき出しの野心、でもすごくチャーミング。当然スターであるべきなのに未だそうなっていないことを自覚し、手間どっていることにひどくいらだっていた。誰にでも見せた訳ではないがそういう一面が。
2017-03-18 01:01:571973年頃のクイーン各員の週給30ポンド。#stl 本では当時の貨幣価値を現在の約1/8として計算しており、それに従えば30ポンドは現在なら3万5千円弱、月給に換算すると15万円ほどになろうか。確かにこれではカツカツの生活だったろう。
2017-03-30 00:20:17@dekipema 1973年11月からのモットザフープル・サポートツアーを前にクイーンのライブを見た『ディスクマガジン』記者ローズマリーホライド「Qがモットツアーでもこんなにうまいなら、モットは気をつけた方がいい。サポートバンド以上になるんじゃないか」と当時の記事に。慧眼
2017-03-30 00:36:22@dekipema デビッドボウイの代打で急きょ出演したBBC「トップオブザポップス」の放映を、4人は地元の電気製品店の前でガラス越しに見つめた。みな自宅にテレビを持っていなかったので。
2017-03-30 00:48:181975年2月初からの北米・日本ツアーに出発するより前、いまだ金銭的余裕のないクイーン4人。所属のマネジメント会社社長ノーマンシェフィールドにそれぞれ借金を申し入れ。新婚のジョンは新居購入のため、フレディはピアノを買うため、ロジャーは新しい車を買うため。#stl
2017-04-28 00:26:28クイーンがトライデントからジョンリードへマネジメント契約を変更しようとしていた頃、4人とリードはまだ互いに探りを入れていた。ある日フレディとリードが食事へ。その席でリードが自らゲイであることを告げると、フレディの手からナイフとフォークが落ちた。 #stl
2017-04-30 00:23:42