項羽と劉邦の国「楚」の驚くべきルーツ!ついに歴史文献が出土し、楚は長江の国では無かったことが明らかに!?

清華大学所蔵戦国竹簡「楚居」の研究を元に、「楚」はもともと南方一帯を指した蔑称であり、西周時代以前は一つの国家のことでは無かった。北方から南下した「商」(殷)集団(殷そのものでは無い)が、楚王の祖先だと考えられる。
中国史 古代史 歴史 項羽と劉邦
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巫俊(ふしゅん) @fushunia
【今日の発見のまとめ】 ヤマトから見て、足を伸ばした先の「つま先」の辺境の土地が「サツマ」。 しかし、その薩摩は、南西諸島に対しては「ヤマト」として接した。 西周から見て、イバラが生えてる未開の地が「楚」。 しかし、その楚は、長江流域に対しては「商」(殷)として接した。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
●「楚」と、「殷」(商)「周」の関係 中間にある「上洛・商県」は、殷末の周から「楚」と呼ばれた(周で出土した周原甲骨文より) しかし、西周時代の周は、漢水の南側を「楚」(イバラだらけの未開の地)と呼んでいる(西周の青銅器の銘文より) だが、その頃、楚王の祖先は商県にいた! pic.twitter.com/fXCYYEUfpb
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        (楚王の祖先は、商県から少しだけ移動し、下流の夷屯にいた。)

巫俊(ふしゅん) @fushunia
殷末の周原甲骨に出てくる「楚」は、商県にいた「楚王室の祖先」を指している可能性がありますが、次の西周時代に討伐対象になった南方の「楚」は、たぶん別の国です。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
古墳時代の「毛人」(えみし)は、東北地方産の毛皮をヤマト王権に提供する群馬県の「巨大前方後円墳勢力」でしたが、「蝦夷」(えみし)は次第に奥羽地方を指すようになります。楚もこのパターンなのですが、近くの「楚」(群馬)が遠くの「楚」(奥羽)に南下し、春秋戦国の楚王国に発展したものです
巫俊(ふしゅん) @fushunia
従って「楚」は蔑称ですが、戦国時代の遺跡から出土した竹簡の歴史記録「楚居」には、楚王室の祖先が帝王切開で生まれ、殷の名医がイバラで母体を縫合したので、「楚」と呼ばれたという楚人の理解が記されていました。この話も、これまで全く知られておらず、世紀の大発見でした。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
例えば、南九州の薩摩は大和(畿内)からサツマと呼ばれていたけど、南西諸島では薩摩を指して「ヤマト」と呼んでいます。上洛の「商」地名については、殷商の商に由来するという注釈があるとのことなので、辺境の漢水流域においては、商県を「商」(殷文化の提供元)と呼んでいた可能性があります。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
そこで気になるのが、春秋戦国の「楚」の祖先集団が、殷周時代には「商」(弘農郡商県、上洛県)の地にいたと主張している『楚居』の記述なのです。殷王盤庚(ばんこう)の孫娘と結婚し、「京宗」という理想的な土地で暮らしたという故事からすると、「楚」だと思っているものの正体は「殷」(商)だと
巫俊(ふしゅん) @fushunia
春秋時代の楚は、南方の蛮夷の勢力に対しては「中原の国家」(殷系勢力)として臨んでいたが、 中原の国家に対しては「蛮夷の勢力」(だが、周との深いつながりがあると主張)だとして、介入を受けないことを第一としていたように思います。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
「楚」は、西周側がある方面の集団に対して用いた蔑称だとすると、途中で蔑称だった「楚」を自称に変える動きがあったと考えられ、そうすると、西周時代の対外戦争に登場する「楚」と、春秋戦国の楚国の祖先は別の集団だった可能性も出てきそうですね。『楚居』の記述を肯定して、西周金文を尊重すると
巫俊(ふしゅん) @fushunia
巴族と楚族の分布が重なっている(両者とも、漢水上流から南下した集団だとされる)ことも気になっています。春秋時代以降に固まった「広域氏族意識」は、西周の当時はまだ固まりきっていなかったと考えても良いと思うのですが
巫俊(ふしゅん) @fushunia
『楚居』を素直に読む限り、こうなりますね。 西周の昭王が「楚」に負けて敗死した事件に出てくる「楚」は、漢水以南の勢力を指していて、次の春秋時代の楚は漢水以南を本拠地にしているが、 『楚居』を読む限り、西周時代の「楚」は漢水以北を本拠地にしていたので、別の勢力だった。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
『楚居』は、戦国時代の歴史書の類なので、西周時代の故事が事実とは限らない訳ですが、しかし、『楚居』と甲骨文にしか見られない情報の一致(男性より女性の方が外交官として広域に活動できた)もあり、『楚居』の殷系始祖説話は、一概に戦国の創作とは決めつけられないと思います。

以前の考察中段階のツイート

巫俊(ふしゅん) @fushunia
三国志の荊州は、長江流域に覇を唱えた先秦時代の「楚」の中核領域にあたる訳ですが、地図を見てると、二重のロマンを感じます。例えば、曹操が確保していた荊州北部の南陽郡は、「河南省南陽市」です。管轄は湖北省では無いわけですが、ここが荊州に属しているのは、楚が北進して長城で守ったからです
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia 春秋時代の楚は、南陽フィールドを自国の県にして領土内に組み込んだ訳ですが、交通の十字路にあたる南陽郡のフィールドを放置しておくと、逆に中原から楚になだれ込んでくるルートになります。実際、それ以前の西周王朝の諸勢力はここから南下し、楚を苦しめました。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia ここで「南陽フィールド」という言葉を使っているのは、春秋時代においては、洛陽から見て黄河の北側にあたる地域を、「南陽」と書いていた例があるので、それとは区別して「のちの荊州南陽郡にあたる、ひとまとまりの地」という意味です。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@shunju_mei いま、読んでる竹簡の『楚居』なんて、研究者にとっても驚天動地の、とんでもないものが出土したという内容です。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
論文「清華簡『楚居』初探」のコピーがどこかに行ってしまった。家の中にあるはずなんですけど…出土した楚の竹簡文書の『楚居』は、それまで知られていなかった楚の神話(楚が対外的に使用していた神話とは、少し違う国内向けの祖先神話が出土しました)が掲載されています。

そのあと、論文が見つかりました。

巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia この季連は、殷代の人物として出てきますが、代数が足りず、むしろそのあとしばらく「京宗」にいた周代前期の楚の祖先の方が、本来の伝承に出てくる祖先なのだと思います。季連というのは伝説化したその地域の英雄神のようなものです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia 『楚居』では、楚の祖先のはじまりを、季連という人物が山に降る場面からはじめています。最初は穴の中で暮らしていた季連は生活の場を求めて、川筋を転々と歩いて行き、殷王盤庚(ばんこう)の子息が近くにいるらしいので会いにいく場面があります。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia 「盤庚(ばんこう)の子ども」というのは、まあその、カダフィジュニアとか、フセインジュニアみたいな人ですね。この人に接近することができれば、片田舎の人間にもチャンスがある訳です。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia 殷代の甲骨文によると、殷代の当時は女性が外交活動に従事していたことが分かっていますが、『楚居』にもその記述があり、「盤庚の子ども」が生んだ娘の「妣隹」(ひすい)が、広範囲に移動していました。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia それで、洛陽の南を流れる「伊水」の上流の渓谷で、楚の祖先の男性「季連」は「妣隹」と出会い、男女の関係になり、子どもが生まれたとあります。その子どもの子孫が歴代の楚王なので、楚は殷系の国であるとの主張が記載されています。
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コメント

穴あきカオス @Konton7 2017年4月2日
これは日本で言うなら「俘囚王の末裔」と中央から認識されるも「鎮守府将軍」を名乗った奥州藤原氏に近いような気がする。アナロジーとして考えると。
ろんどん @lawtomol 2017年4月2日
実に興味深く拝見しました。ありがとうございます。
三楽斎 @nekokagetora 2017年4月2日
大和朝廷が九州南部の薩摩のあたりの勢力を呼称したのは 隼人(はやと)の方。隼人司という官職もある。薩摩国・大隅国は律令体制でつけられた国名です。
nekosencho @Neko_Sencho 2017年4月2日
けっこう同じ地名同じ民族名が別の地域別の民族にも使われてたりするらしいですからね。 倭ってのも日本以外にどこかあったような話を読んだことがありますし
NAGAICHI Naoto @nagaichi3 2017年4月2日
周宏偉氏のここらへんの議論から出てきた話っぽい。 http://economy.guoxue.com/?p=8694 クールダウンしたい人はこちらへ。 http://www.cssn.cn/index/index_focus/201503/t20150327_1562874.shtml
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
山川出版社の日本史リブレット人『奥州藤原三代』によると、これまで蝦夷の「俘囚」の子孫と認識されてきた奥羽の安倍氏、清原氏は、(少なくとも父系の祖先が)中央から赴任してきた在庁官人であり、鎮守府、秋田城の長官不在時に地域を掌握し、ついには夷狄の代表者と見なされるに至ったとありました。 Konton7
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
西郷信綱『日本の古代語を探る』によると、ツマ+接頭語(あ、さ)で、東国を指すアヅマはもうひとつの辺境の地サツマと一対をなす呼称だとありまして、飛鳥、春日の地名がスカ(洲処)+接頭語(あ、か)とされる(池田末則説)ように、令制国薩摩国成立からある言葉だと考えられているようです。 nekokagetora
the loyaltouch @theloyaltouch 2017年4月2日
[c3605023] つまり投馬国がdumaと命名された時代にはあのあたりが辺境だったと想定できるわけで、そこからさらに遠方にある邪馬台国とは一体…?という話に。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
宋代の『太平御覧』が引用する魏志倭人伝には、「於投馬国」とありまして、出雲のことだとする説もありますね。 theloyaltouch
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
参照した論文「清華簡『楚居』初探」(浅野祐一)には、「あるいは穴熊が楚の原氏族の族長で、そこに季連が中原から流亡してきた貴種として迎えられたのかもしれない」とありまして、単純に「中原に由来する中国の国家」だと言っている訳ではなくて、どこの地方の人も欲しがる「青銅器」の取得ルートに関わって、中原から流れてきたヒト、モノと、現地の人たちが手を合わせて国家をつくっていくという形成過程を重視しています。 nagaichi3
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
中国の古典『礼記』祭法に、「山林、川谷、丘陵能(よ)く雲を出(いず)る。風雨と為(な)り、怪物見(あらわ)る。皆(みな)神と曰(い)う」とありまして、『出雲国風土記』などに出てくる「八雲立つ出雲」の枕詞は、漢籍の「出雲」に由来するようです。
Hoehoe @baisetusai 2017年4月2日
楚が蔑称だとするとヘイトスピーチを考慮してポリティカルにコレクトネスな名称に言い換えないといけませんね
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
楚王室の祖先は、西周時代の初期に「京宗」(商県説を採ります)から下流の「夷屯」に移ったので、西周前半期の終わりの「西周の昭王」が、南の楚で敗死したと伝わる事件のときには、まだ夷屯にいたことになります。夷屯のそばには「商密」という地名があるので、何か関係しているのではないでしょうか。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
夷屯が漢水の北にあり、昭王が漢水を渡って南征した先ではない根拠は、夷屯付近に「下鄀」(かじゃく)という地名があるからです。楚王室の祖先は暮らしに余裕が無いので鄀人の牛を盗んできて、バレないように夜に牛を食べて祭祀を行ったと『楚居』にあります。「上鄀」の地名の方は、南郡の鄀県のことで、襄陽と江陵のあいだです。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
「鄀(じゃく)人」は、楚王室を支える重要な一族集団に成長します。西周王朝が衰退した頃に、楚王室とともに漢水の南に新出して、春秋の楚国を形成したと考えられるのですが(一族の本部が上鄀に移動した)、楚の荘王に叛乱を起こして鎮圧されてしまいました。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月2日
この「鄀(じゃく)人」の故事を見て、何だか鄀(じゃく)人は古代ローマ成立の頃に同化消滅したエトルリア人みたいだなと思いました。
今日が終わりの始まりの日 @__blind_side 2017年4月2日
”春秋時代の楚は、南方の蛮夷の勢力に対して云々”のくだりを読んでいた時、時代は大きく変わるけど、五代十国期に呉越が中原の王朝から封爵を受けていた一方で、朝鮮半島の後百済に対しては逆に封爵を施す立場だった話をなぜか思い出しました。
Yoshiteru Kawai @yoshikun2009 2017年4月2日
アジアでケルト系でもラテン系でもフランク人扱いされたようなものなのだろうか?
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月3日
まさに、そのような感じだと思います。楚王室の遠い祖先の季連がいた「上洛の商県」は、殷文化の中心地の洛陽付近から「洛水」の大渓谷を遡っていったところの峠の向こうにありまして、殷系の人も殷系ではない人も、ひとしく「商」(殷の当時の呼び名)と呼ばれたようです。 yoshikun2009
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月3日
最近、殷文化の青銅器が益州の漢中で、まとまった量が出土したそうです。殷の青銅器生産技術は画期的な技術革新で、それまで青銅器が乏しかった辺境の地域に、どっと殷の青銅器が流れ込んだようです。「商県」の地はその四川ルートの途中にありまして、「商」はキラキラしたすごいものを持っている集団のことでした。 yoshikun2009
キャンプ中毒のドライさん(Drydog(乾)) @drydog_jp 2017年4月3日
インディアンみたいな民族名、実は良くあることだったってことか
the loyaltouch @theloyaltouch 2017年4月3日
昭王が戦死した時にいきなり楚の名前が出てきて、あれ、この国なんで急に強国になったの?って不思議に思ってたんだけどまだ滅びきっていない殷の一部だって話なら納得。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月3日
昨日のコメントですが、「令制国薩摩国成立前からある言葉だと考えられている」と書いたつもりでした。前が抜けていました。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月3日
殷の青銅器文化の影響を受けていない地域は無い訳ですけど、殷の女系の子孫だと主張した楚王家の系図を見ると、そのときまだ漢水の北にいて、昭王の行った南にはまだいなかったという話になります。 theloyaltouch
N.Mizusawa (水澤信雄) @wtp2005ap 2017年4月3日
全然違う話ですが、成都郊外で同地で発達していた青銅器文化を展示する博物館に行ったことがあります。また中国へ行きたくなりました。(チケット買おう)
まんりき @manriki 2017年4月3日
長江流域発祥説は四面楚歌ということでよろしいか。
大蔵春 @ookuranoharu 2017年4月3日
楚が殷の末裔だとすると、劉宋の劉裕が項羽の伯父の項伯(項纏)の末裔であるという説が凄い面白い事になるなぁ。劉裕が楚王劉交の子孫を名乗ったことも含めて。もしかして、宋を名乗ったのは五行で殷の順番だからというだけじゃなかったんだろうか。
きんだいち @kanedaichi1 2017年4月3日
結局土着系じゃないのか ガッカリ
the loyaltouch @theloyaltouch 2017年4月3日
fushunia あれ?なんで強かったんだろう
the loyaltouch @theloyaltouch 2017年4月3日
ookuranoharu どういうことになるんでしょ。楚漢戦争は800年の時を経て殷を再興する目的があって、一度劉邦によって失敗したけど更に600年を経て復活したとかそういうストーリーかな
大蔵春 @ookuranoharu 2017年4月3日
theloyaltouch ストーリー性のある話と言うよりも、実務的な話ですね。項伯の末裔の話は北朝の魏の方の『魏書』にある話で信憑性はそこまで確かでもないという話ですが、項伯が劉邦から劉氏を与えられている事は有名ですし、劉裕は本貫地が彭城だから全く蓋然性のない話ではないし、上層は漢の子孫ということで糾合できて、内陸の寒門や異民族には宋(殷)という自称が有用だったのかなあと思いまして。
the loyaltouch @theloyaltouch 2017年4月3日
ookuranoharu 劉氏の威光があまり働かない南方の民にも殷=楚=宋の名前が有効だったという話でしょうか?すると今度は宋を名乗りたいがために項伯の子孫を自称した…なんて可能性も考えられますね。
大蔵春 @ookuranoharu 2017年4月3日
theloyaltouch そう思いますね。対外的にはその風評で通っていて、対政権内・門閥政治的には五行と家系図で権威付けして、みたいなことを想像しておりました。
叢叡世Степин Будимир @kusamura_eisei 2017年4月3日
土着化する、義経みたいなものか。
フローライト @FluoRiteTW 2017年4月3日
~あらすじ~ 時は秦の末期。 猛将項羽が鬼神のごとき力で…そしてUFOが未知のテクノロジーで漢中一番乗りの功名を争っていた…
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
長江流域には、殷周王朝の政権経営に不可欠な「銅」鉱山があります。そのため、西方世界から内陸ユーラシアを経て殷に伝わった青銅器技術などの「ハイパーテクノロジー」を長江流域に放出して、銅資源を獲得する必要がありました。 theloyaltouch
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
湖北省武漢市にある殷代前半の「盤龍城遺跡」は、殷の王族か貴族が築いた長江流域の城郭都市(土塁)でして、一時的とはいえ、殷の武装集団は長江まで進出していました(殷代中期までに撤退し、放棄されたようです)。 theloyaltouch
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
つまり、時間が経過すれば、初期の殷や初期の周が「新型の青銅武器」の力で無双した「圧倒するような戦闘力」が相対化されていき、地方にも別の勢力が成長していくのは、避けられないことでした。 theloyaltouch
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
西周時代の「周」の物資補給ルートも、三国志の地名を使えば、長安ー南陽郡ー随県―江夏郡(武漢)の連絡線を維持することで成り立っていました。そのことは、最近の中公新書『周』が詳しいです。地図を見て頂くと分かると思うのですが、このルートは、漢水の東側の盆地(随)を通っています。 theloyaltouch
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
漢水の東側の盆地の「随国」(西周時代には、曽(そう)、鄂(がく)の二大都市=国があった)が発展すると、誰にとって脅威に感じるでしょうか?答えは「漢水の西側(南側)の盆地の人たち」です。東側の「随国」の地域とは、地理的に競合するライバルの関係になります。なので、「周随同盟」に対して襲いかかっていたと考えられ、周の側は「何という野蛮人だ」と激怒して、彼ら南側の人たちを「楚」と呼んだということになります。 theloyaltouch
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
周は、南方の人たちに対して過酷な徴税をしていましたので、貢納負担に耐え切れず、戦端が開かれる、ということもあったと思います。また、周軍が「楚」をある戦場で撃破し、銅を獲得したと書く青銅器銘文もあるそうですから、戦争も資源獲得の手段でした。「随」と「楚」の決着は春秋時代につけられ、「楚」の勝利となります。三国志においても、西周時代の「楚」の地域にあたる襄陽が経済の中心になり、随県の方は一段低い感じですね。 theloyaltouch
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
ということで、「西周時代の楚」の地域が発展して、随などを撃破し、「春秋戦国の覇権国家の楚」が生まれた訳ですが、その春秋戦国の楚の祖先系譜を見ると、むしろ西周時代の半ばまでは周の側にいた人たち(南陽郡の西にいた)が、南に移動して「楚の君主」の地位を引き継いだという事実が浮かび上がります。
the loyaltouch @theloyaltouch 2017年4月4日
fushunia そちらの書籍も参照しながら話に参加しとるんですが該当箇所が見当たらなくて迷ってます。昭王の南征の拠点として曽に行宮や駐屯地が設けられたことは第二章あたりに書いているのわかったのす
the loyaltouch @theloyaltouch 2017年4月4日
植民先が過酷な徴税に耐えきれずに戦争、後に本国を凌ぐ国力を得るとなるとイギリスとアメリカの関係の方が近い気がする。漢水茶海事件
Oddball @0ddbaII 2017年4月4日
アメリカの場合は税金は緩かったそうだけど。勝手に新税決められたのが気に入らなかっただけで。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月4日
いえ、その行宮や駐屯地の部分のことです。その他の説明は、私の考えですtheloyaltouch
きんだいち @kanedaichi1 2017年4月4日
Konton7 日本の王とかも外国から来たのかも しれません
Hoehoe @baisetusai 2017年4月4日
そりゃご先祖はみんなアフリカ人ですよね
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
吉本道雅氏の論文「夏殷史と諸夏」によると、「山西曲沃北趙村晋侯墓群のM六四より、楚熊咢(前七九九. ―. 前七九一)の制作に係る楚公逆編鐘が出土 」とありまして、西周時代末には、周の文字(殷から周に伝わったもの)を使っていたようです。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
西周時代末の晋国(山西省)は、滅亡に向かう西周の内乱に軍事介入する雄国ですが、楚公の熊咢(ゆうがく)=楚公逆が持っていた楽器のセットが、この晋の墓地から出土しています。青銅器は、戦争に負けた結果、敵国から出土することも珍しくなく、内モンゴルからケイ国という諸侯の国の青銅器が出土したこともあります(狄に負けたという記録がある河北省の国)
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
殷と楚の関係を伝えるものは、あくまで神話ですので、基本的には文化的関係に留まると思います。 baisetusai
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
新羅には、インドから国王の祖先が渡来したとする、荒唐無稽な仏教始祖伝説があったと思います。日本の弥生時代の銅鐸も、平安時代以降になると、インドのアショーカ王が作ったものだと信じられていました。 baisetusai
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
ただ、白川静も、楚の神話はとくに殷の神話の影響が色濃いと示唆していましたし、殷文化の影響圏の外縁部にいた人たちが南下して、現地の人たちと合体して、西周後期の「共和」の時代以降に、春秋時代の楚国と楚王室の母体をつくりあげたということだと思います。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
『楚居』によると、京宗(商県)→夷屯→発漸(はつぜん)→旁(ぼう)カン→喬多(きょうた)→鄀に遷都を続けており、「共和」の頃の人とされる熊勇から、この楚公逆までは、その治世中、ずっと喬多にいたとあります。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
『楚居』は、基本的には都の位置しか記さないのですが、この喬多は、おそらく周系勢力に襲撃され、楚公逆は敗北し、青銅の楽器を晋に持っていかれてしまったという背景を秘めているように思います。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
そこで、『楚居』においては、楚公逆の弟ではないかと考えられる「若敖」(じゃくごう)という偉大な楚の君主が登場したことを記し、その若敖が、鄀(じゃく)(襄陽と江陵の中間にある荊州の南郡鄀県)に都を移したことを記録しています。鄀に都した君主なので、若敖と呼ばれます。おそらく、楚語では「王」に相当する言葉を敖(ごう)と発音したのだと思います。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
喬多という都の位置は、はっきりしませんが、漢水に面した襄陽付近が候補になるかもしれません。この点から考えると、楚王室の祖先の熊勇(西周の後半時期)は、西周に「攻められる側」ではなく「仕える側」だった家柄に生まれたとみられますが、すでに熊勇の数世代前から独自の判断で南下を続けており、西周前半期の周の昭王と戦った「楚」(漢水の南)の地域に進出しつつあった、と見ることができると思います。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
なお、最初に楚王室の祖先がいたとされる「京宗」の地については、楚史の研究者の谷口満教授の論文によると、谷口氏が楚史研究の方法論を学んだ中国の武漢大学(故)石泉教授の説として、「楚の祖先は、丹江の上流の商州あたりにあった」とあり、この商州説は現在も有力な説だと書かれています。
巫俊(ふしゅん)/蘇邇杼理王 @fushunia 2017年4月5日
ざっくりと言うと、商州=商県です。
大蔵春 @ookuranoharu 2017年4月5日
baisetusai (意気揚々と坂上田村麻呂黒人説を話し出す)
きんだいち @kanedaichi1 2017年4月7日
呉も越も秦もだろうか?
ののまる @nonomaru116 2017年9月15日
仏教説話は新羅ではなくてもっと後代(のはず)の檀君神話(帝釈天の息子が熊から人間になった女性と結婚して檀君王倹が生まれたとする話)じゃないの……と思ったら、檀君神話の載ってる『三国遺事』の新羅に「文殊又云、汝國王是天竺剎利種……不同東夷共工之族」と、新羅の国王が「天竺のクシャトリアの出で、東夷とは違う」と文殊菩薩が言った、とあるのか!!
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