- Uroak_Miku
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26)日本国内では「国語」、国外では「日本語」。橋本文法は「国語」でしたが金田一春彦先生は「日本語」を教えるはめになった。東京の学校だったので日本国内ではあったけれど、生徒は留学生だから「日本語」を教えることになった。
2017-04-05 13:54:5628)日本は結局敗戦。大日本帝国による「大東亜共栄圏」構想は破たんし、「日本語」を広める使命も消えた。そして「国語」に戻った。
2017-04-05 13:56:3729)ただ台湾や朝鮮のように、一応「日本」ではあったエリアから「日本語」が持ち帰られました。なんだと思います?「新かな遣い」です。
2017-04-05 13:57:3330)「てふてふ」(旧かな遣い)では実際の発音と違いすぎて生徒の負担が大きいから「ちょうちょ」(新かな遣い)にしましょう。台湾や朝鮮(沖縄もそうだったかな?)ではそう工夫して「国語」が小学校で教えられていた。
2017-04-05 13:59:2031)「日本語」への進化を予兆させる「国語」が、大日本帝国の辺境で生まれていたのです。それが敗戦とともに日本列島に持ち替えられた。アメリカの教育使節団が学校教育の大改革を「要望」したこともあって、一気に新かな遣いに切り替わった。実は明治時代に計画があったのですが森鴎外が潰した。
2017-04-05 14:01:2832)結局「国語」は「国語」のまま戦後日本を生き延びたのです。「日本語」は忌むべき戦前日本のアジア侵略の象徴として避けられた。学校の教室空間から締め出された。新かな遣いはアメリカさまが授けてくださったものだからOKだった。本当は帝国日本が生んだテクノロジーだったのだけど。
2017-04-05 14:06:4133)戦艦大和の建造技術が戦後日本の大型タンカー技術に平和利用されたとか、戦闘機の開発ノウハウがのちに新幹線を生んだとかの美談には昇華されなかった。「日本語」という帝国日本のテクノロジーは戦後日本では、少なくとも学校空間では追放された。
2017-04-05 14:09:4334)そして使い勝手の悪い橋本文法が戦後日本に継承された。徹底して「国語」の文法だったがゆえに帝国日本のイメージから免れることができた。それで戦後のスタンダードになった…
2017-04-05 14:11:0535)しかし「日本語」研究は戦後も生き続けた。春彦先生のベストセラー新書『日本語』は昭和32年刊行。先の意志動詞とか「~ている」用法についても解説されています。戦前日本の研究成果が敗戦から12年後に大衆に迎えられる時代になったのです。
2017-04-05 14:14:1338)思うのだけど、学者さんが「国語」なり「日本語」なりをアカデミックに語れば語るほど、規範化の片棒を担いでしまうというジレンマが生じます。
2017-04-05 14:17:4940)天皇制を言語研究の姿を借りて正統化するのに加担していたわけです。当人たちにそのつもりはなかったのだろうけど。
2017-04-05 14:19:4541)戦後に「国語」と「日本語」の葛藤が改めて生じていくなか、「国語」が教室空間に居座り続けたのは、政治に距離を置きたいという願望が裏にあったのかもしれない。
2017-04-05 14:21:1645)「国語」につくか「日本語」につくか?後者のほうが相性がいいのだけど、学校空間では「国語」が主役。あまり相性が良くない相手です。血液型が違う。
2017-04-05 14:24:5248)悪の大日本帝国が生んだ最良のテクノロジー「日本語」と、清らかな日本国の象徴となった「国語」の偏屈さが、「英語」の世界で葛藤を起こしている。
2017-04-05 14:29:5149)戦後日本の理想主義は「みんななかよく」でした。どんな子もみな平等であり、能力の違いなんてものはない、あるのは個性の違いであるというイデオロギー。
2017-04-05 14:31:1050)バブルに向かっていく日本の置き土産がALTでした。「日米貿易摩擦を少しでも解消するために、アメリカの学生を日本に招いて英語の先生をやらせてあげよう。それでアメリカに金を還元しよう」と中曽根総理がぶち上げた。そして昭和62年にスタートした。
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