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魏の選挙、貢挙の制に関する思考【備忘録】

魏の人材登用制度について考えてるツイートのまとめ。 いずれ自身のブログにまとめるが、後から見返せるよう備忘録としてまとめる。 今後もツイートは追加していく。
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Jominian @Jominian

州郡大中正を吏部尚書と為した、というのは、恐らくは揚州に移ったが故の措置ではないかと思うが、少なくともこの発言が、それ以前に都中正が置かれていたことを示している。州郡に置く中正だけでは、本貫を離れ都にある人間のための、中正に当たる官がいなくなる。都中正がそれに当たるのではないか。

2017-04-24 16:31:33
Jominian @Jominian

時苗は寿春令から都に戻って太官令となると、その郡中正を領した(領其郡中正)。彼は鉅鹿の人であり、洛陽の人ではない。また太官令は朝廷にある官なので、洛陽に置かれるものだろう。「御定淵鑑類函」が三国志と同じく魏略を引くが、そこでは時苗が「中都中正」とされている。

2017-04-24 17:37:32
Jominian @Jominian

太官令と兼任できる中正は、都の中正しかないだろう。魏略が「本郡中正」と書かず、「其郡中正」と書いたのは、河南尹の中正だったからと考えられる。また、他郡では中正の担当郡と本貫は一致しているが、河南尹の中正を鉅鹿の人間がやったということは、都中正に関してはそうしてないということだ。

2017-04-24 17:42:11
Jominian @Jominian

時苗や諸葛恢の例を考慮し、首都に都中正というものが置かれたとして、その管轄する範囲は何であろうか。河南尹や司隷校尉が挙げる河南の人間に対する評価か、或いはそれだけでなく、都に暮らす人々をも含むのか。なお、都に住まっていたであろう人物は、伝を見ると急に散騎侍郎等になっていたりする。

2017-04-24 18:12:13
Jominian @Jominian

例えば夏侯玄などは、別に本郡で孝廉に挙げられたりしてから朝廷の官職に就いたわけではなく、スタートからそうであった。鄧颺は臧霸の妾を貰って臧艾を黄門侍郎に就けた。こういう任官は、果たして中正による人物評価を通過したのか、或いはしていないのか。

2017-04-24 18:17:50
Jominian @Jominian

個人的には、少なくとも当初は、尚書や中書が直接任用する都の人間に対しては、中正が評価するということは無かったのではないかと思う。或いは、あっても形骸化していた。もしそれがあったのなら、鄧颺らの行為は一定程度防止されただろうからである twitter.com/Jominian/statu…

2017-04-24 18:36:32
Jominian @Jominian

諸葛恢の言葉を見るに、晋が揚州に行くに従い、吏部尚書を大都中正、侍郎と司徒左長史属掾を小都中正としたと考えられる。通典は司徒左長史は九品を所掌したと記すが、実際には東晋に至ってからのことではないか。西晋の末に江統が司徒左長史になったとあるが、それ以前に左長史は強調されてないような

2017-04-24 20:22:21

実際には、武帝時代の後半から中正の評価を司徒が裁可するという事例が確認できたので、東晋に入ってから司徒が関わるようになったというのは、誤った考えであった。

Jominian @Jominian

魏の司徒である王朗、董昭、陳矯、衛臻、高柔、鄭沖らは、中正と関わっている様子はない。董昭が司徒として禁浮華令を提案したことや、曹爽が司徒衛臻を尚書令にしようとしたことは、司徒が当時の人材登用に関わっていたことを示しているが、中正の提案を判断し、棄却したりする権能を有するかまでは

2017-04-24 21:47:45
Jominian @Jominian

中正が寒門を二品にしようとしたが、司徒に棄却される→怒った中正が中書を経由して奏上するが、中書が司徒に戻して司徒も議論に参加するよう指示→司徒がまた拒否する旨の奏上→中正が直接奏上し、二品が認められる。 という例があるのか(李重伝)。少なくとも恵帝の初め頃はこんなだと。

2017-04-25 09:46:19
Jominian @Jominian

しかし、中正の等級付を司徒が裁可するようになったのはいつ頃からなんだろうか。武帝治世の後半にはそうなっていたのは間違いなさそうだが。 twitter.com/Jominian/statu…

2017-04-25 21:05:19
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