萩原三雄館長が語る戦国大名武田氏の考古学①「武田信玄と創作された史跡」

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日光81 @nikko81_fsi

武田信玄と創作された史跡。「隠し」金山・「隠し」湯に関しては、むしろオープンでまったくの正反対。金山については、信昌・信縄の時代から操業されていて、信玄が発掘というのは、とにかく信玄に関連付けようとする創作。むしろ信玄期には斜陽化し、勝頼期にはほぼ枯渇。

2017-04-22 17:33:59
日光81 @nikko81_fsi

湯之奥金山、黒川金山の発掘調査を契機に、武田家の所有ですらなく、金採掘を上位権力に認める代わりに、甲州金などの金製品を納める職人集団として金山衆を捉えるべきとのオハナシ。金山が枯渇すると他の鉱山を求める立場ででもあったかもしれないと。

2017-04-22 17:38:49
日光81 @nikko81_fsi

信玄は城を造らなかった伝説。城好きも兼ねているとありえないのは解っているが・・・例の「人は城、人は石垣・・・」のほかに、甲陽軍鑑品三十九『信玄公御一代の内、甲州四郡の内に、城郭をかまへず、堀一重の御たてに御座候』が拡大解釈された可能性。

2017-04-22 17:42:00
日光81 @nikko81_fsi

「人は城、人は石垣」も信玄本人の言葉ではないかも、とは聞いたことがあったけども、甲陽軍鑑にもある人が信玄公御歌だと言っていたという程度の記述、類似する内容は中国古典にもあって、オリジナルではなさそう。具体的に城を造ったかどうかではなく、人材についての考え方の一表現とみるべきか。

2017-04-22 17:46:06
日光81 @nikko81_fsi

棒道。上中下三本の棒道があったとする見解の初見は甲斐国志で根拠も不明。江戸初期の絵図にボウミチと書かれたものは存在するものの、武田氏時代のそれとの関連は不明。

2017-04-22 17:51:11
日光81 @nikko81_fsi

唯一文書上の根拠とされてきた高見沢家文書も、甲府から諏訪に到る道を造るに当たりどこの山の気も伐っていいから橋架けよというだけのもの。これに約30年ほど前に笹本先生が棒道の存在根拠にはならないんじゃね?という趣旨の論文を出されたとか。

2017-04-22 17:52:37
日光81 @nikko81_fsi

信玄堤。完成まで20年かかったとする根拠は保坂家文書にある竜王新町に棟別役免除で移住を促進する文書の年である永禄三年(1560年)とこれまた甲斐国志にある『武田信玄の時に至り』という文言を勝手に信虎追放&家督相続した天文十年(1541年)に比定したもの。

2017-04-22 17:55:46
日光81 @nikko81_fsi

また民政事業というよりは、領主としてやるべき事業で信玄に特異なものとは言いがたい。むしろ信虎以前の武田が国中でも石和以東に基盤があった点を踏まえると、信玄堤の建設は国中の西部に武田の権力がいよいよ浸透し定着してきた証と見る方がその位置づけがはっきりするかも、とのこと。

2017-04-22 17:59:13
日光81 @nikko81_fsi

つまり、信虎期に武力統一した甲斐を、晴信が引き継いで内政上の重要課題である治水事業を甲府盆地西部にまで取り組むことができるまで、実質的な支配が確立したわかりやすいシンボルになるかもしれない、ということ。なるほど、その信玄堤の捉え方はそうかも・・・とナットク。

2017-04-22 18:02:17