劉表:北を張繍・劉備、東を黄祖に任せ南に向かう三国志序盤の群雄

清流派儒者として名を馳せた劉表は宗賊を皆殺しにして荊州を治め、北を張繍や劉備、東を黄祖に守らせてひたすら南に勢力を伸ばしていきます。荊州南部の四太守にも触れます。
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おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

西の益州(蜀)に割拠していた劉焉とその子の劉璋とは対立する傾向にありました。劉焉は長安の朝廷にいた自分の息子らを内応させ、涼州の馬騰が長安に攻め上って李傕を攻撃しましたが、内応が発覚して息子らは殺され、馬騰も敗退します。劉焉はこのショックもありほどなく病死します。

2017-02-01 19:55:25
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劉璋は劉焉の跡を継いて益州牧の地位を朝廷から承認されますが、三国志の注に引かれた「英雄記」によると李傕政権は後任の益州刺史として扈瑁を漢中郡に送り込み、荊州別駕の劉闔と劉璋配下の沈弥・婁発・甘寧を扈瑁に呼応して反逆しました。しかし反逆は失敗し彼らは荊州に逃げ込みました。

2017-02-01 20:03:18
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劉璋は父親の時代からの重臣である征東中郎将の趙韙に巴郡の胊忍に出兵させたとあります。長安の朝廷の方針が一貫しないのは献帝を巡って李傕・郭汜が争っていたからかもしれません。(注の内容が正確でない可能性もあります)

2017-02-01 20:11:03
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この劉璋軍に劉表がどのような対応をしたかも記録がありません。南郡の西部の秭帰県の県令に後に蜀漢で活躍した李厳がいましたが、李厳の劉表配下時期の最後の官職なのでもう少し後の時代かと思われます。

2017-02-01 20:17:16
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194年、献帝は李傕・郭汜らが争う長安を脱出して洛陽に向かいます。趙岐は朝廷の使者として劉表の元に赴き、洛陽に向かう献帝のために物資の提供と洛陽の宮殿の修復を求めました。劉表はこれに応じて物資と兵を洛陽に送り、洛陽の復興に協力しました。

2017-02-01 20:25:47
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献帝に逃げられた李傕・郭汜と共同していた張済は兵糧に困り、196年に張済は武関を出て南陽郡宛県を攻撃します。このとき宛を守っていたのが婁圭なのか、それとも劉表の部将なのかははっきりしませんが、張済は流れ矢に当たって戦死し、甥の張繍が軍勢を引き継いで宛に入ります。

2017-02-01 20:38:25
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197年1月、張繍は曹操に攻撃されて一旦降伏しますが、後に裏切って曹操に攻撃を加え、嫡子の曹昂を討ち取って勝利を得ました。しかし張繍が追って出ると曹操に破られ、宛を失って穣県に入り、劉表に救援を求めてきます。

2017-02-01 20:48:11
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劉表は使者としてやってきた張繍の参謀の賈詡をもてなしますが、賈詡は劉表を「平和な時代なら三公(大臣)が務まるが、乱世では猜疑心が強く決断力も無いので成功しないだろう」と評しています。

2017-02-01 20:48:35
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曹操が袁術との戦で許に戻ると張繍と協力して南陽の各県を奪還します。曹洪が攻めてきますがこれを退けて小競り合いが続きますが、11月には湖陽県を曹操本人に奪還されて劉表は部下の鄧済を捕えられます。舞陰県も曹操に奪還されます。

2017-02-01 20:55:29
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198年3月、張繍が穣県で曹操に包囲されたので劉表は援軍を送って物資を張繍に供給し、さらに曹操の背後を断ちました。曹操は退却を試みますがこれを劉表と張繍は追い込みます。輜重が見当たらないので曹操が退却すると読んで攻撃しますが、曹操は輜重を土に隠しており奇襲を受けて敗れました。

2017-02-01 21:24:03
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とはいえ劉表は張繍が曹操に攻撃されると援軍を送り、その都度曹操を追い返して決定的な敗北を喫することはありませんでした。劉表と張繍の協力関係は成功していたと言えます。

2017-02-01 21:25:19
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劉表は曹操により献帝が保護されて許に移った後も貢納を少し続けていたようですが、袁紹との同盟は維持され曹操とは抗争を続けていました。治中の鄧羲はこのことを諫め(曹操と戦争すること)ましたが、劉表は曹操への反抗を続けます。鄧羲は病気を理由に劉表の元を去り二度と劉表に仕えませんでした。

2017-02-02 19:43:37
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198年、長沙太守の張羨が劉表に反旗を翻します。張羨は南陽郡出身で、荊州南部(零陵・桂陽)の県令を歴任し、この地域に影響力が強い人物でした。剛直でプライドの高い人物で劉表は張羨を礼遇していませんでした。張羨に従って荊州南部も劉表に叛きました。

2017-02-02 19:47:51
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劉表は長沙を攻めますが何年かけても攻略することは出来ませんでした。張羨は桓階の進言で曹操に使者を送りますが、曹操は袁紹と対峙しており援軍を荊州南部まで送ることはできませんでした。

2017-02-02 19:58:03
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また199年には滅亡した袁術の兵を保護した盧江太守の劉勲を孫策が攻撃します。江夏太守の黄祖は息子の黄射に五千の兵を与えて劉勲を救援させますが、孫策に敗れ江夏郡の夏口を攻撃されます。劉表は従子の劉虎と部将の韓晞を黄祖への援軍として送りますが、二人とも孫策に破られて斬首されます。

2017-02-02 20:03:23
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このように袁紹と曹操が官渡で戦おうとしていたとき、劉表は南に敵を抱え、東では手ひどい敗北を喫していました。また北の同盟者であった張繍は曹操に降伏していました。袁紹は劉表に出兵を求めますが、劉表は出兵すると答えつつ、本格的に北上して曹操と戦うことはありませんでした。

2017-02-02 20:07:21
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劉表の官渡への不戦は劉表の日和見的方針や優柔不断を理由にされることが多いですが、実際には北の同盟者張繍を引き剥がされ、南の張羨の反乱は曹操を頼りに発生し、東の孫策の劉勲・黄祖攻撃も曹操が公認しています。曹操陣営の外交により出兵が難しい状況に劉表は追い込まれていたと言えます。

2017-02-02 20:11:59
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従事の韓嵩と別駕の劉先は「天下で大事を成すなら曹操と袁紹の疲労に付け込んで北上すべきだし、そうでないならどちらかにつかないと双方の恨みを買う。どちらかが河北を統一した後では荊州だけでは対抗できない。曹操に人々は従っており曹操に味方すべき。」と進言し、蒯越もこれに同意します。

2017-02-02 20:18:00
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劉表は迷った挙句、韓嵩を使者として曹操へ送ろうとします。韓嵩は自分が使者として行き皇帝に官位を授けられると皇帝の臣下となり(劉表)将軍の臣下ではなくなってしまいますので、私の気持ちを裏切らないでほしい。と言いますがそれでも劉表は韓嵩を送り出しました。

2017-02-02 20:25:45
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案の定、韓嵩は零陵太守に任命されて帰還し、曹操への帰順を曹操に説きました。劉表は群臣の前で韓嵩は裏切り者だと断罪します。周囲は韓嵩に謝罪させようとしますが韓嵩は「私が裏切ったのでなく、将軍が私を裏切ったのです。」と譲りません。

2017-02-02 20:29:37
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劉表は韓嵩を殺そうとしますが、妻の蔡氏の取りなしでなんとか収まりました。韓嵩は幽閉され、劉表が死ぬまで出ることはできませんでした。

2017-02-02 20:32:29
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長沙では張羨が病死し、息子の張懌が跡を継ぎますが、劉表はこれを平定します。曹操はさらに南の交州刺史の張津に命じて零陵・桂陽を攻撃させると同時に、孫策のいとこにあたる孫賁を長沙太守に任命して劉表への牽制を続けました。

2017-02-02 20:38:09
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なお、劉表は汝南にいた曹操配下の陽安都尉の李通に調略をかけていたとあり、出兵はしなかったにせよ曹操への敵対行為は続けていました。しかし官渡で袁紹は敗れ、袁紹配下で予州で戦っていた劉備は劉表の元に落ち延びてきます。劉表は劉備を受け入れて新野県に配置し、張繍に代わる北の備えとします。

2017-02-02 20:45:51
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荊南の四英傑(笑)とも呼ばれる韓玄、金旋、劉度、趙範はゲームの影響で元劉表の部下と思われがちですが、実際は曹操が荊州を治めたあとに赴任してきています。ちなみに三国演義でも趙範の部下の陳応は「我らは曹丞相にのみ服する!」と趙雲を罵っています。

2017-02-03 13:04:30
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武陵太守の金旋は京兆の人で前漢の武帝に仕えた匈奴出身の武将である金日磾の子孫です。つまり金旋の祖先は匈奴。それもあってか(?)演義では勇敢に張飛に挑みますがいざ張飛と対峙すると逃げ出してしまいます。三國志11での武力は60台なのでそれなりに高いですね。

2017-02-03 13:10:29