南奥長沼城の新国上総が蘆名氏から与えられていた戦力

新国氏は天正末期には単独で一つの備えを作れる戦力があったのでは?という話
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三浦介 @miurano_suke

江戸末期成立の編纂物だけど「富田家年譜」に天正17年、蘆名家没落後、伊達政宗の催促に応じた長沼城の新国貞通の陣立が出ている。

2016-04-17 21:57:05
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata これに依れば先駆、二陳から五陳、左右まであって、新国は完全に単独で一つの備えを構成できる力があったようだ。

2016-04-17 21:58:58
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 軍勢催促を受けたのは摺上原の直後(4ヶ月後)だから恐らく蘆名時代からこの規模の動員力を与えられていたのだろう。

2016-04-17 22:01:55
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 外交権については今ひとつわからないので、支城領主と言えるかはわからない。 盛隆の代になると伊達家と独自に外交を交わしてる節はあるけれど…。

2016-04-17 22:08:03
三浦介 @miurano_suke

@aizuyakata 尚、最初に述べた通り「富田家年譜」は江戸末成立ですんで、鵜呑みにできるものではありません。しかし新国貞通のことは一次史料でも確認できることが多く、具体的な陣立はともかく、支城主としての立場なんかは概ね許容できるのでは?と考えてます。

2016-04-17 22:20:42